アイアールmagazineの連載企画「名城は語る」。
日本各地の城を独自の目線で解説している人気コラムです。
悠久の時を超えて紐解かれる物語をお楽しみください。
雲海のなかに浮かび上がる幻想的な姿―― 歴史好きならずとも、その姿に心を打たれる方はきっと多いことと思う。天空の城、と問われたら、皆さんはどの城を思い浮かべるだろうか?*1 日本三大「天空の城」として名高いのが、日本のマチュピチュと云われ、数多くのメディアでも紹介されている竹田城(兵庫県朝来市)、大河ドラマ「真田丸」のオープニングで圧巻の高石垣の姿が採用され、日本に12城しかない現存天守を持つ備中松山城(岡山県高梁市)、そして今回ご紹介する越前大野城(福井県大野市)である。
越前大野は、加越、越前中央、越美という3つの山地に囲まれ、九頭竜川をはじめとする4つの河川が流れる10キロ四方の盆地である。大野城の歴史は、天正8(1580)年、越前一向一揆平定の恩賞として、織田信長から越前大野郡を与えられた金森長近が、大野盆地の北寄りに位置する亀山に城を築いたことに始まる*2。
二重三階の大天守に二重二階の小天守、天狗櫓からなる複合連結式の天守を持ち、内堀、外堀を備えた大野城は、常在戦場の質実剛健さを持ちながらも、織豊系城郭らしい革新性も併せ持つ名城である。天守台など山頂付近の野面積みの石垣は見事で、当時の石積みの技術力の高さと、戦国期の迫力を今に伝えてくれている。残念ながら、安永4(1775)年の大火*3により天守は喪失。その後天守が再建されることはなかった*4。
*1 城好きにとっては、一晩中語り明かしても飽きないテーマである。山中鹿介(幸盛)により落城した兵庫県佐用町の利神城、藤堂高虎築城による三重県熊野市の赤木城など……ああ、誌面が足りない
*2 越前大野は織田信長に一乗谷を追われた朝倉義景が、一族の朝倉景鏡の謀反により自刃した場所でもある。市内にある六坊賢松寺には義景の墓所が存在する
*3 越前大野は奥越特有の気候や盆地の強い風の影響もあってか、江戸から明治にかけて実に8度の大火に見舞われている
*4 現在の天守は昭和43(1968)年、元士族の寄付により再建された鉄筋コンクリート製の復興天守であり、当時とは位置や形状が異なる。が、雲海に浮かぶ天守の雄姿はやはり見ごたえがある
時代は下り、時は幕末――
小藩である越前大野が一躍、脚光を浴びることとなる。当時の藩主は土井利忠。土井家は徳川幕府草創期に大老として辣腕を振るった土井利勝*5を祖とする譜代大名である。幕藩体制下の多くの藩がそうであったように、大野藩も深刻な財政危機に陥っていた。そもそもの徳川幕府に課せられた大命題は戦国からの脱却だった。手伝普請や参勤交代を課し、莫大な財政負担を強いることによって諸大名の力を削ぎ、政権の安定を図った。藩の規模によっても負担は異なったが、一年おきに国元と江戸を往復することが定められた参勤交代では、現代の価値に換算して片道だけで数億円の出費となる藩もあったという。
武家社会というのは米を財政基盤とする石高制である。戦のない世の中では、領地が増えることはない。家臣がいくら功績があったとしても、滅多なことで加増できるものでもなかった。徐々に身分は固定化していき、能力よりも家柄が重視されるようになる。ところが、世の中の経済取引が拡大していくにつれ、物価が上昇してくると、相対的に米の価格が低下するという現象が起きてきた。武士の生活水準は下がり続け、藩は商人たちから多額の借金をしながら運営をしていくようになる。
実際に借金の利息が税収を上回る破綻状態に陥った藩がいくつも出てきた。大野藩も例外ではない。相次ぐ火事や飢饉の影響もあり、4万石*6という小藩にも関わらず、積もりに積もった借金は、実に9万6千両にのぼったという。利息だけで年に約1万両を支払わなければならない債務超過状態だ。藩主土井利忠は、これまで通りのやり方では将来はないと考えたのだろう。藩士からの反発を覚悟のうえで大鉈を振るった。天保13(1842)年、利忠は「更始の令」を発令。更始とは、旧いものを改め、新しく始めるという意味だ。この改革はかつてないほどに厳しいものだったようで、利忠は藩士に面扶持*7を申し渡すとともに、自ら先頭に立って生活を切り詰め、倹約に努めた。
*5 利勝は実力もさることながら、幼少時より家康から破格の寵愛を受けたこともあり、家康の落胤(らくいん)という説がある
*6 大野藩は名目上4万石とされていたが、実質は1万6千石程度しかなかったと云われる
*7 面扶持とは、身分の上下なく、人数に応じて扶持米を与えること。役職手当がもらえなくなる旧来の重臣たちからの反発は強かった
だが、倹約にも限界がある。利忠は、旧来の重臣たちではなく、内山七郎右衛門(良休)・隆佐(良隆)など、家禄は低くとも、若く有能な人材を積極的に登用。藩内にある銅山の再開発や財政改革を任せ、殖産興業を推進した。同時に藩校明倫館*8を開設し、経済立て直しのための新たな知識を学ぶ人材を育成。種痘をはじめとする西洋の医学や砲術、西洋式帆船など、当時の最先端の技術を学問を次々に取り入れていく。
特筆すべきは内山七郎右衛門が手掛けた藩直営の商店「大野屋」だ。一号店は大阪の北久太郎町。地場の特産品を商人を介さず売ることができれば、それだけ藩の収益になる。大野屋は、いわば江戸時代における第三セクターともいえる異色の存在だった。現代人の目で見れば、それほど珍しいとは思えないが、当時の武士の価値観からすると、商いや銭勘定などは卑しい行いであり、士丈夫が手掛けるものではないというのが常識だ。旧勢力からの圧力も相当なものだったはずだ。だが、利忠も七郎右衛門も怯むことはなかった。大野の特産品である煙草、生糸、漆などと他地域の特産品との交易を進め、次第に巨額の利益を上げていくことになる。最盛期には全国に37店舗を出店するまでに拡大。見事に借金を返済し、その後も藩の財政を支える屋台骨となった。
内山七郎右衛門はその後、大野屋を藩の経営から切り離し、銀行業である良休社、そして大七銀行*9へと発展させていく。そして、明治維新後の大野藩士族たちの就産事業として、永く士族たちを支え続けた。武士の体面という強固な旧常識を打ち破り、支出を抑えるだけでなく、成長投資と人材育成もそれ以上に力を入れていく。苦難の時にあっても前を向く姿勢を忘れなかった土井利忠の決断は、藩を救い、藩士たちの未来を救った。
2023年3月、東証はPBRが低迷する上場企業に対し、改善策の開示・実行を要請した。かねてから問題視されていた日本企業の資本効率や収益性、株価の低さにメスを入れた、ということなのだろう。この報に揺れた企業も多いはずだ。半年が過ぎ、すでに多くの企業が改善策を開示、あるいは実行に移し始めている。だが、本当に求められているのは一過性の施策ではなく、本業における収益力の改善や成長投資だ。もう黒船は来ている。過去の成功や常識に捉われることなく、飛躍への一歩を踏み出せるのか。投資家諸兄には是非とも厳しく、そして温かく見守っていただきたいと思う。
*8 明倫とは孟子の「皆人倫を明らかにする所以なり(人として守り、自分の行うべき道を明らかにするという意)」からきた言葉だ。明倫館は武士の子弟だけではなく、一般庶民にも開かれていた
*9 大七銀行の大七とは、大野屋の架空の代表者名義である大阪屋七太郎からとったもの
平安貴族たちはいつからか、自らの手を汚すことをしなくなった。血を厭い、穢れを厭い、戦を厭った。これらを行う武士を蔑み、国を閉じ、政治という名ばかりの、実行力のないまじないの世界に引き籠った。日本独自の華やかな宮廷文化が花開いた一方で、当然のことながら国力は衰え、実権は武士へと移っていった。
人は、本質的に変化を嫌う性質を持っていると思う。新しいことをするには勇気がいる。場合によっては痛みを伴う覚悟もいる。一歩を踏み出すというのは、さほどに難しい。もし、土井利忠が前例に縛られ、改革を決断できなかったとしたら? 内山七郎右衛門が武士に商売などできぬと考えていたら? きっと藩の財政は破綻し、大野藩は幕末を待たずに消滅していただろう。路頭に迷った藩士たちの生活も悲惨なものになったはずだ。
大野の町は、小さな町ながら、現在でも武家屋敷や商家、寺院などが当時の風情を色濃く残す「北陸の小京都」と呼ばれている。大野城の麓には、財政改革を成し遂げた家老、内山七郎右衛門の邸*10もあり、一般公開されている。
既存の常識に溺れることなく未来を切り開いた名君・名臣を生み出した天空の城と美しき城下町を、是非ご照覧あれ。
*10 内山七郎右衛門、隆佐兄弟の遺業を偲ぶために後の内山家の屋敷を解体復元したもの
〈著者追伸〉
忙しさにかまけ、しばらく休載させていただいておりましたことを深くお詫び申し上げます。
読者の皆様は投資に役立つ情報を求めて本誌をご覧いただいているはず。お休みしても大した影響はないだろうとたかを括っていたところ、読者の皆様から驚くほど多くの激励のコメントを頂戴し、執筆者として感涙に咽ぶばかりです。
これまで取り上げてきた城は、実は無作為ではありません。時事問題や経営、経済などと絡め、語れる城を選ぶ。これがなかなかに難しいのです。浅学菲才の身には過ぎた取り組みを始めたものだと改めて感じておりますが、本稿を読んでくださる皆さまがいる限り、挑戦し続けてまいります。引き続き応援の程、何卒宜しくお願いいたします。
越前大野城(福井県大野市)
住所:福井県大野市城町(Google Mapで表示されます)
交通:JR越前大野駅より京福バス大野線上りまたはまちなか循環バスで約15分、徒歩の場合は越前大野駅より30分