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「新生NOBLE」への進化を通じ<br />
業績V字回復を牽引する

「新生NOBLE」への進化を通じ
業績V字回復を牽引する

2023年10月12日
6763 帝国通信工業
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可変抵抗器の主力メーカーのひとつである帝国通信工業 (ブランド名 : NOBLE) は今、 大きな変革期を迎えている。 「抵抗器のNOBLE」 から脱皮し、 「新生NOBLE」 へと進化する道を選択し、 力強い歩みを始めているのである。 そのスローガンは、 「さぁ、 NOBLEと実現しよう。 Together, we make good sense. 」 だ。 そして、 その舵をとるのが羽生満寿夫社長である。 その素顔に迫った。






 

「可変抵抗器のNOBLE」 からの脱皮を牽引

 羽生社長が2019年に代表取締役社長に就任した際に、 経営トップとしての自らと帝国通信工業に課したミッションが、 「新生NOBLE」への進化である。 それは、 生産技術革新によって既存事業を高利益体質に導きつつ、 医療 ・ ヘルスケア部門という成長事業を大胆に開拓し、 かつ社会的課題解決に資するセンサー電極水漏れ検知などのチャレンジ分野への取り組みも強化するという、 アグレッシブなミッションだ。 
 その大胆な舵取りを担う羽生社長とは、 一体どんな人物なのだろうか。 



 

日本アルプスに囲まれた農家の長男として生まれる

 羽生社長は痩身で優しげな風貌だが、 その眼光は鋭い。 現場で叩き上げてきた人だけが持つ、 独特な雰囲気を放っている。 それは、 おそらく羽生社長がたどってきた道のりに由来するものであろう。 出身は長野県飯田市。 中央アルプスと南アルプスに挟まれ、 「あばれ天竜」 と呼ばれる天竜川の中流部に位置する。 その飯田市の農家の長男として、 1958年に生を受けた。 

  「農家の長男坊ですから、 当然、 跡取りとして期待されていました。 だから地元で就職して、 やがては家を継ぐことになるものと、 当然のことのように考えていました」

 幼少期は、 周囲が畑と水田ばかりの環境で、 野山を駆け回って遊んだ。 
 
  「サッカーボールを買ってもらったんですが、 山の中で1人で蹴るしかありませんでした 」

 何しろ集落には同年代の子供が少ない。 野球やサッカーのチームにすら足りないので、 おのずと1人で遊ぶのが当たり前となった。 そんな羽生少年が変化を見せ始めるのが、 中学時代からである。 まずプラモデルを作り始める。 ものを作ることに興味が向かうのである。 そして工業高校に入ると、 ラジコン飛行機に凝り始めた。 解禁されたアルバイトでお金を貯めて、 エンジン付きのラジコン飛行機を買い、 それを組み立てて天竜川の河川敷で大人に交じって飛ばすのである。 

 そして自らリーダーシップを発揮し、 ラジコン同好会を校内に組織する。 学園祭ではラジコン飛行機を飛ばしたり、 ラジコン自動車を走らせたりした。 

  「中学や高校で、 みんなで何かやろうとなると、 いつの間にかまとめ役になっていることが多かったですね 」 と羽生社長。 「俺が、 俺が 」 というタイプではないが、 周りから自然に頼られる存在だった。  



 
3歳当時の羽生社長。 祖父母、妹とともに

帝国通信工業赤穂工場に就職も、 すぐに川崎工場へ

 工業高校を卒業すると、 長野県駒ヶ根市にある帝国通信工業赤穂工場に就職した。 自分で選んだというよりも、 高校の先生と相談しながら決めたという。 今でこそ、 大学の就職活動なら企業のことを詳しく調べるのが一般的だが、 当時の高校生である。 先生が 「大きな会社だ」 と言うので就職を決めたが、 帝国通信工業という会社に何ら特定のイメージも抱いていなかった。 

 実家から30㎞ほど離れていて通勤できない距離でもないが、 高速道路もない時代で片道1時間以上かかるうえに、 積雪時は危険でもあるため寮に入ることにした。  ところが何と、 羽生社長はこの赤穂工場で働くことはなかった。 今日まで一度も、 である。 就職するとすぐに、 本社に近い川崎工場の研修に派遣されたのである。 帝国通信工業では、 本社採用の大卒社員を地方工場に1年間派遣して、 現場を経験するという研修を受けさせていた。 代わりに、 地方の工場からも10人程度の新入社員を本社近くの川崎工場に集め、 2~3年間の研修を受けさせていたのである。 

 その期間が経過して、 大半は地元の工場に戻ったが、 羽生社長を含む3人程度はさらに3年間、 川崎に残されることになった。 

 「残された理由はわかりません。 もっとやれそうだと見込まれたのかもしれません。 最初から生産技術に配属されて、 そこで生産設備の設計やメンテナンス、 治具と呼ばれる道具を自分で考案して作製し、 それを現場で使えるようにする作業指導などをしていました 」

 当時の生産技術には、 羽生社長の属する生産ラインを企画するグループのほかに、 生産設備を作るグループ、 電気を設計するグループ、 機械設計をするグループなどがあった。

 そして当時は、 帝国通信工業が秋田県や岩手県の企業に外注展開を始めた頃と重なっている。 そのことが、 羽生社長が川崎に残された大きな理由だったと思われる。 外注先に生産ラインを設計して設置し、 作業指導もしなければ外注先で作る製品の品質を担保することができない。 その重要な戦力として羽生青年が認められたということだったのだ。 まだ、 わずか20代の若手社員だったにもかかわらず、 である。



 
川崎工場で生産技術に取り組んでいた20代の頃

生産技術で製造業の神髄を知る

 ただ、 「生産技術に配属された最初の頃はつらかった」 と羽生社長は振り返る。 品質が安定する作り方や効率が良くなる方法を考えたり、 作業者の負担が軽くなる作り方を考えるのだが、 「何度もダメ出しをされました。  『ちゃんと給料を払っているんだよ。 だからその分は働きなさい』 と。 今思えば、 そこで仕事の厳しさを教えられたんですね 」 。 

 しかし、 そのつらいと感じていた仕事が喜びに変わった。 それは、 生産ラインを企画し、 設置して、 作業指導をした製品が店頭に並んだのを見た時だった。 帝国通信工業は可変抵抗器を主力製品としているため、 通常では自社製品そのものが店頭に並んでいるのを目にすることはない。 ブラックボックスの中に隠されているからである。 当時は某有名ゲーム機メーカーのキーボードやカメラの操作ブロックなどを受託生産していた。 そこで、 自らが関わった製品が人々に買われ、 使われるのを目の当たりにして、 「今までの苦労が報われた 」 という感慨におそわれたという。 要素部品メーカーの社員だからこその、 偽りのない感想である。 

 そして、 だからこそ、 冒頭に紹介したスローガンに込められた思いも、 よりリアルに浮かび上がってくる。 込められているのは、 ものづくりの喜びと達成感をすべての社員に感じてもらい、 「抵抗器のNOBLE 」 からの脱皮につなげてほしいという願いにほかならない。


 

生産技術の外販を担当

 1988年に川崎工場が閉鎖された時、 羽生社長は 「故郷の長野県に戻れるかもしれない」 と思ったという。 しかし帝国通信工業は、 その優れた生産技術を外販していく路線を選択。 1975年には帝通エンヂニヤリングを設立し、 最初は商社としての販売のみだったが、 後に工場を設置して顧客企業の仕様に合わせて設計 ・ 製造まで行うようになる。 生産技術に精通した羽生社長は、 営業技術担当として同社に異動となる。 営業担当者と一緒に顧客企業の要望を聞き、 それを企画して設計 ・ 製造部門に回し、 出来上がったものを設置するのである。 

 「この時代にさまざまな業界の方と知り合いました。 電機メーカー、 化学メーカー、 自動車関連メーカー、 住宅機器メーカーなどです。 その出会いも貴重なもので、 今でも財産となっています」

 この帝通エンヂニヤリングは今も堅調に経営されているが、 立ち上げてから8年後、 経営が軌道に乗った時に、 羽生社長は帝国通信工業に呼び戻される。 人件費高騰への対応として、 海外展開を始めることになり、 羽生社長の生産技術への知識と技能が再び求められるようになった。 1年のうち120日以上を海外で過ごすようになる。 そうして50歳になろうかという頃には、 生産技術のトップに就いた。

職場の同僚とのスナップ。 後列中央が羽生社長

社長という 「最後の研修」

 結局、 羽生社長は入社してから現在までの46年間、 長野県駒ヶ根市の赤穂工場に戻ることはなかった。 

 「今も、 社長という最後の研修を続けているのかもしれません」

 誠実な人柄から滲み出るようなジョークである。 

 社長への就任は、 決して楽観的な決断だったわけではない。 主力商品である可変抵抗器の売り上げは、 ビデオカメラやデジカメの普及に乗って一時は伸びたが、 リーマンショック、 東日本大震災、 生産拠点のあるタイの大洪水などの影響をもろに受けて業績の低下が始まる。 スマートフォン用の可変抵抗器に対応してこなかったことで、 ビデオカメラやデジカメがスマートフォンに置き換えられていくプロセスが、 逆風になってしまったことも大きかった。 数字的には、 かつて200億円を超えていた連結売上高が120億円台まで落ち込んだ、 2019年での社長就任だった。 

 「ただ、 復活する兆しは見えていました。 多くの社員も経営陣も、 このままではいけないと感じていました。 社長就任を打診された時には少し悩みましたが、 周りに助けてくれる人がいるから大丈夫だと自分に言い聞かせ、 受けることにしました。 1人でできるわけではありませんから」

 しかし、 そう簡単には思うようにいかぬまま、 あっという間に1年間が過ぎた。 このままでは、 何もできないまま2年間の任期が過ぎてしまう。 そこで、  「次の1年は自分が思う改革ビジョンを推進したい」 と正直な思いを、 頼りになる仲間たちに相談したという。

 帝国通信工業ではそれまで年次目標はあったが、 中期経営計画は策定していなかった。 そこで、 初めて本格的な5カ年の中期経営計画を策定し、 社員に向けて明確な目標を示したのである。 最終年の2025年度には連結売上高180億円、 それを実現するまでの段階を示すとともに、 方向性を明確に打ち出した。 そして、 2023年3月期には売上高約160億円と、 着実に計画通り中間の目標を達成している。 

 「進化したNOBLE」 に至るためには、 最後には社員の意識改革がカギとなる。 中期経営計画では、 社員一人ひとりが自発的に動いて新しいものを生み出せるように、 チェンジ ・ チャレンジ ・ コミュニケートの 「3C 」 活動を全社員に呼びかけている。 そしてそれを裏打ちする評価制度の変革にも取り組んでいる。 

 羽生社長の最後の研修は、 これからも続いていくのである。

座右の銘は 「継続は力なり」 。 あきらめず継続して作業指導すると、 必ず相手の力が高まっていく。 あきらめたら、その時点で終わりである。 社長としての会社経営にもこの考えが貫かれている。 そして、 趣味はカメラ。 最近ハマっているのは航空機の写真撮影で、 休日には羽田空港や成田空港に出かけ、 シャッターを切っているという。

profile
羽生 満寿夫(はにゅう ・ ますお)
1958年長野県生まれ。 1977年3月帝国通信工業入社。 2007年より生産技術部長、 執行役員生産技術部管掌生産技術部長、 上席執行役員生産技術統括生産技術部長、 取締役上席執行役員生産技術統括生産技術部長などを経て、 2019年より現職。



 

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可変抵抗器のNOBLEは初の中計で新生NOBLEへ進化