アイアールmagazineの連載企画「名城は語る」。
日本各地の城を独自の目線で解説している人気コラムです。
悠久の時を超えて紐解かれる物語をお楽しみください。
光があれば、そこには必ず影が生まれる。
物事には、すべて正しいということもなければ、すべて誤っているということもない。EV化というメガトレンドにおいても、発電時も含めたライフサイクル全体でのCO2排出量や電池寿命、充電渋滞、高額な電気代負担*1等、数々の難問が山積みする現実がある。世界各国でEV化を推進していたいくつものメーカーがその勢いを緩めざるを得ない現状を見ても、カーボンニュートラルへの道のりはまだまだ波乱がありそうだ。
企業における経営判断とて同様である。何かを選択するということは、何かを捨てるということだ。経営者は、そのメリット、デメリットを比較したうえで、自らの責任において、苦渋の決断をする。時には、重い十字架を背負うことになるかもしれない、孤独な仕事だ。
我々は、歴史を結果から見る。そして、その歴史は勝者によって作られることも知っている。織田家の天下を簒奪した豊臣秀吉や、秀吉の天下を覆した徳川家康も然りである。前政権の功績を消し、自らの正当性を強調する。いくらメディアのない時代だとはいえ、人の口に戸は立てられない。勝者といえども何の苦労もなくその評価が確立できたわけではないのだ。
今回は、そうした勝者のストーリーを紡ぐ苦労と、そこから導かれた思わぬ結果に着目してみたい。
*1 新車販売のうちBEVが8割を超えるというノルウェーでは、一部地域で都市部の電気代が12~13万円にのぼるというケースや、充電のための渋滞、CO2排出量の他国への転嫁等、数々の問題が噴出している
佐賀県佐賀市の中心に位置する佐賀城。戦国期の佐賀城は、島津氏、大友氏とならぶ九州の雄であり「肥前の熊」と呼ばれた武将、龍造寺隆信の居城だった。隆信は、元々の主家である少弐氏内部の勢力争いで窮地に陥った龍造寺家を、苦難の末、一代で復興し、肥前国を中心に九州北部での支配権を確立した実力者である。
隆信の名を一躍高らしめたのは、大友氏との激戦「今山の戦い」だろう。急成長する龍造寺氏に危機感を抱いた大友宗麟は、元亀元(1570)年3月、3千の兵を率いて龍造寺領に侵攻。戦況は膠着状態となった。籠城の構えを見せる龍造寺軍に対し、大友軍は総攻撃を決断。その前夜、大友軍の気の緩みを看破した龍造寺家の家老、鍋島信生(のぶなり・後の直茂)の進言により、大友軍の本陣、今山に対する夜襲が決行される。大友軍は大混乱に陥り、総大将の大友親貞は討死。大友軍の犠牲者は2千余人にも及んだという。
しかし、九州三強と称えられるまでになった隆信の栄誉は長く続かなかった。天正12(1584)年3月、隆信は島原半島の沖田畷で島津・有馬連合軍と激突した。1万に満たない島津・有馬連合軍に対し、龍造寺軍は総勢5万7千*2。隆信は圧倒的兵力差に慢心し、精強な島津軍を警戒すべしという鍋島信生の諫言を聞き入れず、全軍を前に押し出した。兵力に劣る島津軍は泥田・沼地の多い沖田畷(おきたなわて)の地形を巧みに利用し、龍造寺軍を畷の一本道に誘い込んだうえ、伏兵で挟撃。世に「釣り野伏せ」と呼ばれる島津独自の戦法で大損害を与えたうえ、龍造寺本陣へとなだれ込んだ。龍造寺軍は総崩れとなり、総大将の隆信をはじめ、成松信勝、百武賢兼等、重臣の多くが討ち取られる大敗北を喫した。鍋島信生も自害しようとしたが、家臣に止められ撤退。隆信の嫡男政家を補佐し、龍造寺家の勢力回復に努めることになる。一時的に島津氏に従属すると見せかけ、その陰で時の権力者、豊臣秀吉に接近。秀吉の九州征伐に伴って豊臣家に寝返り、島津攻めの先陣を務めるなど戦功をあげた。
*2 軍勢の総数は「北肥戦誌」の記述によるが、島津軍の記録では6万、ルイス・フロイスの記録では2万5千となっている。この時代における兵数の記録は本当にあてにならない
秀吉は信生に対し、病弱な当主政家に代わって国政を担うよう命じるとともに、豊臣姓を下賜。龍造寺領のうち3万石を与えるなど厚遇した。信生は名を直茂*3と改めるとともに、次第に龍造寺家の実権を握り、その地位を確立させていく。その後も秀吉から家康へと、天下人との緊密な関係性を維持しながら、徐々に主家を無力化し、幕府公認の元、龍造寺家からの禅譲を実現。以後260年続く佐賀鍋島藩38万石の礎を築いた。
しかしながら、この禅譲の裏では、かなりの泥沼の争いがあったようだ。直茂が龍造寺家の柱石であったことは事実だ。だが、結果として主家を乗っ取る形となったのも事実。主家の簒奪のみならず、一部では龍造寺隆信の戦死さえも、直茂が仕組んだと見る向きもあった*4。実際、龍造寺家遺児らの直茂への疑念と憎悪はすさまじいものがあった。これらの疑念が真実かどうかは不明であるし、確たる証拠もない。だが、こうしたなかで権力を確立していくのは、相当な苦労があったであろうことは想像に難くない*5。そして、この流れのなかから、あの有名な書物が生まれることになる。
武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり― 鍋島論語とも呼ばれる「葉隠」の有名な一節である。忠義や死を強要するイメージもあり、良い印象を持たない方も多いと思うが、本来は、武士として恥をかくことなく職務を全うするために、死の覚悟を持って臨む心構えが重要だ、という内容である。葉隠は、江戸時代中期頃、佐賀鍋島藩士の山本常朝が口述し、同じく藩士の田代陣基がまとめたものとされる*6。ところがこの葉隠、武士の心構えを説く書物としては、かなり異質なところがある。例えば、お釈迦様も、孔子も、楠公(南朝の忠臣、楠木正成)も、(武田)信玄も、どんな優れた功績を上げたものも、佐賀鍋島藩ではないので関係ない、と語られる箇所がある。朱子学を推奨する当時の風潮から見ても異例な、あまりにもエキセントリックな鍋島至上主義なのだ。邪推すれば、主家を簒奪したことへの後ろめたさの裏返しとも取れるし、また、そこまでしなければならないほど、藩の統制に苦慮していたことの証左でもあるだろう。
極端な制度や教育には必ず「反動」が出る。幕末になると、こうした強圧的・保守的な土壌を打ち破るかのように、佐賀から優れた人材が綺羅星のごとく生まれてくることになる。鍋島直正、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信ら「佐賀の七賢人」と呼ばれる人々である。
前号で取り上げた越前大野藩と同様、フェートン号事件に端を発する長崎警備の負担やシーボルト台風による甚大な被害などもあって、佐賀藩の財政は破綻状態にあった。当主鍋島直正(閑叟)は、役人の大幅な削減を断行し歳出を削減。一方で産業育成や教育の充実、西洋からの新技術の導入を推し進めた。多布施に反射炉を築き、アームストロング砲や鉄砲の自藩での製造に成功したほか、蒸気機関や蒸気船の建造など、軍隊の近代化も進め、国内でも有数の技術力を誇るまでになった。幕末という激動の時代背景があったにせよ、強固な保守思想で抑圧され続けた反動が、賢人たちの資質を一気に開花させたという面もあるのではないだろうか。
佐賀藩士であり、後に内閣総理大臣を務め、早稲田大学の創設者としても知られる大隈重信は後年、葉隠について「実に奇異なるもの」と語っている。早稲田大学の教旨に示されている自主独立の精神は、こうした極端な思想教育への反動もあったのだろう。
*3 一般的にはこちらの名前の方が馴染みがあるだろう。信生の信はもちろん、龍造寺隆信から偏諱(へんき)を与えられたものであり、名を捨てたということは、龍造寺家との決別の意思を固めたということでもある
*4 当主である隆信が討ち死にしたにも関わらず、家老である信生(直茂)が生き残ったこと。戦後、島津家からの隆信の首の返還を拒否したことなど含め、疑われやすそうな状況証拠が存在するのも不利なところだ
*5 このお家騒動は後に「鍋島の化け猫騒動」として脚色され、芝居や講談で大ヒットすることになる
*6 山本常朝、田代陣基に加え、佐賀第一の学者であった石田一鼎、鍋島家菩提寺である高伝寺の住職であった湛然和尚ら4名の合作とも云われるが、4人が4人とも、ある意味かなり
いけない。ここまで、肝心の佐賀城のことに何も触れていない。もちろん、佐賀城自体も魅力溢れる城郭である。何度か行われた修繕により、時代ごとに異なる手法で積まれた石垣は興味深く、70メートルにおよぶ巨大な水堀も現存している。かつて「沈み城」と呼ばれ、敵襲の際には多布施川の水を取り込み、本丸以外を水没させて敵の侵攻を防ぐという、画期的な構造であったことも明記しておきたい。明治7(1874)年に七賢人にも数えられた島義勇、江藤新平らによる士族反乱「佐賀の乱」が起きたことにより、ほとんどの建造物が消失したものの、近年では堀や土塁などの復元整備が進んでいる。また、天保期の本丸御殿の一部が復元され、佐賀城本丸歴史館として一般開放されている。50メートルはあろうかという長廊下や320畳の大広間は、往時を体感するには充分な迫力だ。常設展示では、七賢人など郷土が誇る偉人たちの足跡も紹介されている。
本稿のタイトルにある舳艫(じくろ)とは、船の船首と船尾を表す言葉だ。結果には原因がある。時代時代の決断が、その後の思わぬ結果を生むことがある。だからこそ歴史は面白い。
そうそう。七賢人には入っていないものの、葉隠教育を受けながら、その後解き放たれたように大きく才能を開花させた人物がいる。鍋島直正に見いだされ、藩の製煉方として反射炉の設計やアームストロング砲の製造、蒸気船の建造等に辣腕を振るった田中久重。「からくり儀右衛門」「東洋のエジソン」とも呼ばれた天才技術者だ*7。明治維新後、久重は東京・京橋区(現在の銀座8丁目あたり)に田中製造所を設立。沖牙太郎(沖電気創業者)や宮田政治郎(モリタ宮田工業創業者)、池貝庄太郎(池貝創業者)等の優秀な人材を輩出しながら事業を拡大していく。この田中製造所こそ、東京芝浦電気、後の東芝である。
*7 久重の代表作のひとつに嘉永4(1851)年に開発された「万年時計」がある。古今東西の時計の最高傑作と言われ、ゼンマイを巻くと1年間は時を刻み続けたという
2023年12月20日、東芝は上場廃止となり、74年にわたる株式上場の歴史に幕を下ろした。日本を代表する重電、エレクトロニクス製品の雄である東芝の近年の混乱に気を揉まれたという方も多いのではないだろうか。一旦は株式市場から退場するものの、いつか、一段と飛躍した姿を期待したいものである。晩年、田中久重がこんな言葉を残している。「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」と。
佐賀城跡(佐賀県佐賀市)
住所:佐賀県佐賀市城内(Google Mapで表示されます)
交通:JR長崎本線佐賀駅より市営バス平松循環・広江・犬井道行約10分、県庁前より徒歩すぐ