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匠の城<br />
――伊賀上野城<br />
〔三重県伊賀市上野丸之内〕

匠の城
――伊賀上野城
〔三重県伊賀市上野丸之内〕

2022年10月13日
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アイアールmagazineの連載企画「名城は語る」。
日本各地の城を独自の目線で解説している人気コラムです。
悠久の時を超えて紐解かれる物語をお楽しみください。

 七度主君を変えねば武士とは言えぬ――と言い放った男がいる。伊勢・伊賀を治めた戦国武将、藤堂高虎である。終身雇用という昭和の常識はとうに崩壊した*1とはいえ、現代でさえ、我々凡人が堂々と発言するにはなかなかに躊躇われる言葉ではなかろうか。

 ただ、我々日本人の間に根強く残る「忠臣は二君に仕えず、貞女は両夫に見(まみ)えず」という概念は、朱子学が奨励された江戸時代以降に形成され、常識として定着したものだ。それ以前、ひとつ決断を誤れば滅亡の危機に晒されていた戦国時代には、有望な大名の元に移籍したり、勝てる方につく選択をすることは決して珍しいことではなかった。

 実際に七回も主君を変えた高虎のことを、変節漢と陰口を叩く人間もいたというが、高虎自身は、決して云われるような変節漢でもなければ、次から次へと転職を繰り返す地に足の着かない人物だったわけではない。少し考えてみれば、高虎は徳川家康からの信頼も厚く、最終的に、伊勢・伊賀という幕府にとっての重要拠点を任されている。猜疑心が強いといわれる家康が、いつ裏切るかしれないような人物にそこまでの信用を置くとは考えにくい。外様であるにもかかわらず、譜代の家臣たちを押しのけて大名として抜擢された高虎への妬心から出た話であるのかもしれない。

▲ 日本屈指の海城である今治城の雄姿
▲ 城址に立つ藤堂高虎像

 高虎の仕官歴を押さえておこう。①浅井長政、②阿閉政家、③磯野員昌、④津田信澄、⑤豊臣秀長、⑥豊臣秀保、⑦豊臣秀吉、⑧徳川家康(以降、二代秀忠、三代家光)。本当に七回も主君を変えている*2

 高虎は弘治2(1556)年、近江の浅井長政に仕える地侍の子として生まれた。初陣は元亀元(1570)年の姉川の戦いで、足軽としてそれなりの武功を上げたというが、まだ若く、血気盛んだった高虎はその後、揉め事の末、刃傷事件を起こして解雇。同じく浅井家の家臣、阿閉政家、磯野員昌に仕えることになるが、その直後に浅井家は滅亡。次いで日の出の勢いの織田家に連なる津田信澄*3に仕官するが、反りが合わなかったのか、長続きせずに辞めている。ここまでは、前段で擁護したのが冗談としか思えないダメ社員っぷりである。

 しかし、この後、高虎に転機が訪れる。天正4(1576)年、羽柴(後の豊臣)秀長*4に召し抱えられることになった高虎は、織田家の中国方面戦線への従軍を皮切りに、秀長の兄である羽柴秀吉の天下統一事業のなかで、劇的に飛躍を遂げていくことになる。秀吉、秀長が手掛けた数多の築城の現場に関わるなかで、縄張りや石垣の技術など、最先端の築城技術を身につけていった高虎は、屈指の築城名人として評価されるようになっていく。豊臣政権の不動のNo.2である秀長の厚い信頼*5のもと、天下取りのために持てる技術を惜しみなく発揮した高虎。自らの成長と主家への貢献が最もわかりやすい形で結実した、まさに充実した日々だったに違いない。


*1  一般的には崩壊したと思われているが、既存の常識を壊し、起業する若者が増える一方で、企業の大規模リストラや就職氷河期を見ながら育ってきた若年層の間では、むしろ安定性を求める声も大きくなっている。格差は開く一方なのだろうか
*2 あちこちを渡り歩いて主君を変えることを「渡り奉公」というが、ここまで渡り歩いて成功を掴んだ例はなかなか珍しい

*3 信長に殺された弟、織田信勝(信行)の息子。ところがこの信澄、明智光秀の娘を娶っており、本能寺の変後、関与を疑った織田信孝と丹羽長秀により殺されている。不幸の星というのは、どこまでもついて廻るものなのだろうか
*4 兄秀吉の覇業を陰に日向に支え続けた出来すぎた弟。秀長がもう少し長生きしたら、徳川の天下はなかったと言われることも
*5 秀長との厚い信頼関係が後年、藤堂家のちょっとしたお家騒動に発展するのだが(名張騒動)、それはまた別の機会に
▲ 和歌山城。紀州徳川家の居城として知られるが、元々は羽柴秀長の元で高虎が普請奉行を務めて築城。現在の天守は第二次大戦で焼失後、1958年に鉄筋コンクリートで復元されたもの
▲ 大和郡山城追手向櫓(復元)。豊臣政権のNo.2、秀長は高虎が普請したこの城で亡くなった

 ところが、そんな蜜月の日々も長くは続かなかった。天正19(1591)年、豊臣家の未来を一身に背負っていた秀長が52歳で病没。自分をひとかどの武将として取り立て、育ててくれた恩人、秀長の死に、高虎は悲嘆に暮れた。それに追い打ちをかける事件が続く。高虎は、秀長の跡継ぎである秀保にも忠実に仕え、秀長の死後は後見役も務めたが、その秀保が文禄4(1595)年、17歳の若さで急死してしまう*6。主家が滅亡し、各地を放浪していた高虎がようやく手に入れた幸福が、音を立てて崩れていく。消沈した高虎は地位も何もかも捨て、主君の菩提を弔うために高野山で出家したのだが、その築城の才を惜しんだ秀吉が、高虎の出家を許さなかった。ただ、秀長の死後、豊臣政権は一気に暗い影に支配されていく。

▲ 高虎が築城した宇和島城天守(現存)。城の縄張りは四角形という固定観念を逆手にとり、五角形の縄張りで敵を混乱させるトリックが秀逸

 高虎でなくとも、晩年の秀吉の衰えや政治姿勢の変化には、首を傾げざるを得なかっただろう。京の徳川屋敷造営を担当したことを縁に家康との交流があった高虎は、秀吉が亡くなる直前から、徳川家との関係を深めていく。関ヶ原の戦いでは東軍として参陣し、最前線で大谷吉継と対峙。脇坂安治、赤座直保、朽木元綱、小川祐忠らの調略をはじめ、東軍を勝利に導く大功を上げた*7。その後、高虎は徳川譜代の大名たちを差し置いて、家康の信頼を勝ち得ていくことになる。開幕当初、有力な外様大名が次々と改易の憂き目にあったにも関わらず、東海道の要衝であり、対豊臣の重要拠点でもある伊賀、伊勢22万石*8を任されたのだ。

 藤堂家の本拠は伊勢の津に置かれたが、今回ご紹介したいのは、築城の名手高虎の真骨頂ともいえる城郭、伊賀上野城である。元々この地は、天正伊賀の乱で伊賀衆の拠点となった巨大寺院、平楽寺があったところだ。その後豊臣家の大坂城を守護する城として筒井定次により築城されたものに、高虎が大規模な改修を加え、逆に豊臣家の反撃を封じる強固な防衛線の中核として築き上げた。特筆すべきは、日本でも一、二を争うといわれる*9高石垣だ。高虎時代に堀を深く掘り、当時最先端の技術で積み上げられた石垣や天守は、筒井時代と異なり大坂方面を向いており、西から攻め上ってくる敵の意気を挫くに充分すぎるほどの圧倒的な防御壁となっている。当時としての最先端のテクノロジーにばかりに目が行ってしまうが、高虎の築城術の本質は、単に技術力の高さにあったわけではない。城とは時に戦いの場であり、時に権威を見せつける場面であり、時に政治の中心となる場所である。高虎が凄いところは、築城の目的、その土地の特性、仮想敵の状況、予算、工期など、最重点課題を見抜き、それを適切に解決するアイデアに彩られているところにある。それが証拠に、彼が築いた名城の数々は、どこかに高虎らしさを感じられはするものの、そのコンセプトは見事にバラバラなのである。
不運にも仕える主家の滅亡や凋落に見舞われ、あちこちを渡り歩いた高虎だったが、築城という特殊な技術やノウハウを身につけ、磨くことで天下人たちから高い評価を勝ち取るに至った。家康死去の際には枕元に侍ることを許され、没後は二代将軍秀忠、三代将軍家光に仕え、寛永7(1630)年、74歳の生涯を閉じた。

▲ 現在の伊賀上野城天守は1935年に衆議院議員の川崎克氏が私財を投じて建てた模擬天守。高虎時代は五重の層塔型天守だったとされる
▲ 日本で1、2を誇る高石垣は必見である。高所恐怖症の方はご注意あれ

 築城の名手として天下人から愛された藤堂高虎だが、結局「手に職がある人間は強い」ということを言いたいわけではない。例え凄い技術を持っていたとして、変節漢、裏切り者とも呼ばれ、七度主君を変えた人間を、あなただったら採用し、そこまで信用できただろうか? 高虎という人は、おそらくではあるが、技術だの何だのを超えた、非常に人間的魅力に溢れた人物だったのではないだろうか。彼の人となりを示す面白い逸話のひとつをご紹介したい。

 高虎が、仕えるべき主君を求めて放浪していた頃のことである。三河国吉田宿(現在の愛知県豊橋市)に差し掛かったところ、街道沿いに美味しそうな餅屋を見つけた。店頭では何とも香ばしい香りをさせながら餅が焼かれている。浪人中の高虎には、悠長に餅を食べていられるような持ち合わせもなかったのだが、あまりの空腹に、勧められるままに餅を注文し、ペロリと平らげてしまった。食べ終わり、ハッと我に返ったものの、後の祭り。うなだれて、店の主人に無銭飲食をしてしまったことを告白し、謝罪した。

 ところが店の主人は、高虎の見事な食べっぷりに感銘を受けたのか、あるいはどこかに光るものを感じたのか「出世払いでよい」と許しただけでなく、路銀と、餅を土産として渡した。

 店主の寛大さ、暖かさに感激した高虎は、この時の恩を終生忘れることはなかった。この時の「白餅=城持ち」となるように、藤堂家の旗印を「白もち三つ(本当)」としたことをはじめ、苦労が実って一国一城の城持ち大名となった際には再び吉田宿を訪れ、餅屋の店主に何倍もの礼をしたという。あまりに出来すぎた話であるため、真偽は定かでない*10と思っていたのだが、津藩の上席家老だった中川蔵人の日記に「藩祖高山公(高虎の事)、ゆかりの三河吉田宿中西与左衛門方にて餅を食ふ習し也」という記述があるという。実際に参勤交代の道中、吉田宿を通る際には、必ずこの餅を食す習わしになっていたようで、高虎の何とも憎めない性格や、「恩」というものを大事する人間性が伝わってくる。他にも、同僚や部下、仲の悪かった同僚にさえも、公平で、優しさや気遣い溢れる対応をしたという記録も残っている。きっと、家康も秀吉も、高虎のそういうところを愛し、信頼したのではないだろうか。

 先日とある番組で「日本には、昭和97年の会社と、令和4年の会社がある」と、藤野英人氏(レオス・キャピタルワークス 代表取締役社長)が面白いことを言っていたのを聞いた。まさに言い得て妙である。昭和のルールや昔の成功体験を引きずっていて、変化に対応できずに少しずつ悪化している会社が多いという指摘なのだろう。古くからのものづくり企業では、こうした体質の改革で苦労しているところが多いとも聞く。
  
 匠という言葉は、ものづくりへのこだわりを表す言葉としてしばしば使われる。頑固で寡黙な職人の姿をイメージされる方も多いだろう。だが、真に匠といわれる技術者や、何百年も続く老舗は、一見何も変わらないように見えて、実は常に細かなアップデートを日々繰り返しているということを忘れてはいけない。

 あなたが普段見ているのは果たして、昭和の会社か? 令和の会社か?


*6 秀保は、謀反の罪で秀吉により切腹させられた豊臣秀次の弟であり、子のなかった秀長の養子
*7 藤堂高虎軍と大谷吉継の最期にまつわるエピソードは号泣ものであるが、今回は泣く泣く割愛した。興味がおありの方は是非ご自身でお調べ願いたい
*8 飛び地として伊予の一部(2万石)を含む

*9 1位は大坂城の30.0mで、伊賀上野城は29.7m(2位)である
*10 筆者はこの話を聞いて、旧吉田宿に餅屋を探しに行ったことがある。その時は徒労に終わったのだが、豊橋市や津市では、高虎の白餅のエピソードをモチーフにした菓子が人気を博している



伊賀上野城跡

住所:三重県伊賀市上野丸之内(Google Mapで表示されます)
交通:伊賀鉄道「上野市駅」から徒歩8分 / 自動車:名阪国道「中瀬IC」「上野IC」から10分
参考:三重県伊賀市の伊賀上野城公式ホームページ(公益財団法人 伊賀文化産業協会)