2021年、創業から1世紀以上にわたって日本の食卓を支えてきた老舗製粉会社が社名を改めた。「日本製粉」から「ニップン」へ――。これに始まる“第2の創業”の先頭に立つのが、同社代表取締役社長の前鶴俊哉氏だ。食への意識の変化や環境問題、世界的な原材料高騰など、さまざまな課題を抱える食品業界にあって、前鶴社長はこれらの課題に挑みつつ、事業の拡大とサステナビリティを基軸とした経営を推進している。技術職から始まったその経歴を振り返りながら、前鶴社長の“想い”に迫る。
働く母の姿から芽生えたものづくりへの関心
前鶴社長は、1961年、鹿児島県に生まれた。育ったのは田んぼや畑が子供の遊び場という田舎町。前鶴家では父は公務員として働く一方、母が自家用の米や野菜を作り、鶏を飼育していた。
「母は農作業のかたわら味噌や醤油を作ったり、内職で機を織ったりと、とても器用な人でした。そんな母の姿を見ながら育ったからでしょうか、将来は物を作る仕事をしたいと漠然と思っていました」
段取りよく勉強するタイプではなかったが、理科や数学、とりわけ図形の問題が好きで、県内トップクラスの高校に進学。この頃、生来のものづくりへの興味が機械いじりに広がり、買ってもらったカセットプレーヤーを大喜びで使っていたことを憶えている。やがて大学進学を考える時期になると、工学系の勉強をしたいと考えるようになった。
両親を安心させようと日本製粉に入社
前鶴社長は努力の結果、東京大学理科Ⅱ類に進学する。ちなみに東京大学では、3年次の学部選択で専門分野を決めるが、前鶴社長が選んだのは農学部。食品会社への就職につながると考えたのだ。この時念頭にあったのは、郷里の家族のことだった。
「食品業界は将来的に安泰といわれた時代でしたから、堅実な就職をして、東京に出してくれた両親を安心させたいと思いました。ただ、食品工学の研究室に入ったのは、“工学”の文字にひかれたからです(笑)」と前鶴社長。ものづくりへの未練も多少はあったようだ。そして決まった就職先が、日本製粉(当時)だった。
「素材の会社なら特に安定しているだろうと考えました。いい会社とは何かよくわかりませんでしたが、とにかく一生懸命やろうと思っていましたね」
入社2年目の経験が大きな糧に
1983年、入社した前鶴社長は、千葉工場の生産部門に配属された。入社2年目を迎えたある日、前鶴社長はコーングリッツ*の生産管理担当を命じられる。コーングリッツを製造するのは千葉工場のみで、実質的な担当者は1名だけ。なんと前鶴社長は、若くしてコーングリッツの品質について全責任を負う立場となったのだ。
主力の小麦粉に比べれば事業規模は小さかったものの、顧客は名だたる食品メーカーが多く、要求は厳しい。若手社員にとってどれほど荷が重い仕事だったかは容易に想像できる。
さらに、当時はトウモロコシの製粉技術が確立されていなかった。顧客が求める粒度(粒の大きさ)を実現するため、どのくらい蒸気をかければ皮がむけやすいか、機械をどう組み合わせればいいかなど、どれも答えは霧のなか。連日連夜、海外の文献を手に機械に張り付き、試行錯誤を重ねる日々――。
しかし、持ち前のものづくりへの情熱が発揮されたのだろう、前鶴社長はこの苛烈な4年間を「おもしろがってやっていた」と振り返る。
「生産という仕事は、勉強したり工夫したことが良くも悪くも必ず結果に出ます。機械いじりが好きだったこともありますが、それが本当に楽しかった。お客さまには数え切れないほど叱られましたが、納品できる水準を達成した時はうれしかったですね。ここで製粉技術を突きつめた経験が、今の私のベースになっています」
さらに、工場は独立採算制をとっていたため、常に損益を考える意識が養われたという。
「減価償却の意味もわからなかったので、とにかく勉強の毎日でした。トウモロコシ相場を横目で見ながら、歩留まりをいかに上げるか、電気代をどのように下げるかなど、0.1%のコストカットのために、考えることは山ほどありました」
* トウモロコシを挽いた穀粒。スナック菓子やビールなどに用いられる
2度の海外経験で企業経営に触れる
コーングリッツの経験と並んで、前鶴社長のキャリアの大きな糧となったのが2度の海外経験である。30代前半でスイスの製粉学校に留学した前鶴社長は、本場の製粉技術はもちろん、技術継承の仕組みについても理解を深めた。
会社が選抜者をスイスに派遣する目的は、最新の製粉技術を会社全体に伝えることにあった。帰国後の前鶴社長は、工程の改善などを指導するため、全国の工場を飛びまわることになる。
「トヨタの生産方式を参考に、カイゼン活動を導入したのもこの時期です。工場ごとにさまざまな状況があるなかで、『製粉という事業をこんなふうにしていこう』という方向性を現場に伝える仕事でもあって、本社と工場の関係を考えるうえでも役に立ちましたね」
39歳の時には、当時新たに買収したパスタモンタナ(Pasta Montana, L.L.C.)の生産担当取締役として、アメリカのモンタナ州に赴任している。
日本の小麦は、基本的に政府が一元的に輸入して製粉業者に売り渡す仕組みである。当時(2000年頃)は、パスタの原料となるデュラム小麦も同じ制度下にあったため、パスタ製品の個性を出しにくかった。そこで当時の日本製粉は、特色あるモンタナの小麦を使ったパスタを現地で製造し、日本に輸入する戦略を立てたのだ。
ところが前鶴社長にとっては、海外の買収先における勤務も、パスタの製造もまったく初めての経験だった。今度はアメリカの地で、コーングリッツで経験したような試行錯誤の日々が続いた。
「当初は約半年の予定でしたが、結局アメリカ滞在は2年半続きました。英語が得意ではなかったこともあって大いに苦労しましたが、経営陣のひとりでもあったので、現地の弁護士と労務関係の話をするなど、マネジメントを経験できたのは貴重な機会でした」
アイデアあふれる開発力で「ニップンがあってよかった」を実現する
工場や海外などさまざまな経験を積んだ前鶴社長は、2020年、代表取締役社長に就任した。生産・技術と商品開発を担う専務執行役員として経営に携わっていたものの、社長職の指名は青天の霹靂だったという。
「社長就任はイメージしていませんでしたが、この会社をどうやってよくするかということは、以前から意識してきました。既存事業とのシナジーが見込める新規事業の展開や、停滞している事業をどうやって変えていくか、といったことが取り組むべき課題であると認識していました」
さらに前鶴社長は、こんなふうに続けた。
「若い社員に『本当に大切なのは入社後の勉強だ。技術や能力を身につけて自分の価値を上げないといい仕事はできない』とよく話すのですが、それは私も同じことで、これからも勉強を続けなくてはと思っています」
ニップンは現在、社名変更や経営理念・経営方針の刷新など、「第2の創業」ともいえる日々を送る。新たな経営理念は「人々のウェルビーイング(幸せ・健康・笑顔)を追求し、持続可能な社会の実現に貢献します」と定めた。ESGやDXへの対応、食の安全安心の確保、諸コストの上昇への対応など、取り組む課題は多い。前鶴社長はこれらの解決に尽力するとともに、アイデアあふれる開発力で食品事業の拡大を図り、ニップンを総合食品企業としてさらに飛躍させたい考えだ。
2021年の発売以降売り上げを伸ばし続け、業界紙の新技術・食品開発賞を受賞した「めちゃラク アイスの素」は、その象徴的な商品だろう。ひと手間加えればアイスクリームができあがるその商品の“ひと手間”に、前鶴社長はおもしろさを感じるという。
「最近は簡便なものや出来合いの商品が主流となっていますが、めちゃラクシリーズは家庭で簡単にものづくりの楽しさを味わうことができ、3歳の孫も喜んで作っています(笑)」
「当社には製粉で培った技術をベースにした、新しいもの、おもしろいものを作る開発力があります。近年では、アマニ油、セラミド、プラントベースフードといった商品の開発に力を入れてきましたし、冷凍食品についてもたいへんご好評をいただいております。これからも、『ニップンがあってよかった』と思われる商品をお届けしていきたいですね」
生来のものづくりの気質を持つ前鶴社長と、老舗企業が培ってきた開発力。その融合によってどんな商品が生み出されるのか、楽しみは尽きない。
profile
前鶴 俊哉(まえづる・としや)
1961年、鹿児島県生まれ。1983年に株式会社ニップン(日本製粉株式会社・当時)に入社。福岡工場長、生産・技術部長など製造部門の要職を歴任の後、2015年に取締役執行役員 生産・技術副本部長兼生産・技術部長に就任。以後取締役常務執行役員、同専務執行役員を経て、2020年6月に代表取締役社長 社長執行役員に就任。