「セック」という社名は、英文社名「Systems Engineering Consultants Co.,LTD.」の頭文字3つをとったという。「システム工学を究めたプロの技術者集団を目指す」という同社の半世紀を超える軌跡は、多くのイノベーションに彩られている。そんな同社を率いるのが、代表取締役社長の櫻井伸太郎氏である。産業社会の進化を牽引する新たなシステムの構築に邁進してきた櫻井社長の横顔を描きつつ、同社の革新性の秘密にも迫ってみたい。
「リアルタイム技術」の専門家集団
1970年の創業以来、セックは「リアルタイム技術」の専門家集団として着実な成長を果たしてきた。
「リアルタイム技術」とは、“時々刻々と変化する外界と密接な相互作用を持ったコンピュータシステムを設計する技術”を指す。人工衛星、クルマの自動運転、ロボットなど、あらかじめ予測することができず再現性がない事象に対して瞬時に応答し、人を介さず連続運転を可能とする制御システムが、「リアルタイム技術」の代表的成果といえばイメージしやすい。
実績は圧倒的だ。モバイルネットワーク、ロボット、自動運転、社会基盤整備、宇宙探査など、その範囲はスマートフォンから国が注力する最先端領域まで非常に幅広く、日本初、あるいは世界初の機能を持つものも少なくない。自身も優秀なエンジニアである櫻井社長は、入社以来一貫して開発畑を歩み、同社の技術開発とイノベーションをリードしてきた。
コンピュータを学びつつヨットに熱中した学生時代
櫻井社長は1958年(昭和33年)3月、東京で生まれた。3歳から中学3年生までピアノを習うなど、文化的な環境の整った家庭だったが、教師だった父には厳しく育てられたという。そして、ピアノよりもスポーツが大好きだった櫻井少年は、小学校・中学校時代は野球に熱中。高校時代はハンドボール部で練習に明け暮れる日々を送った。
数学が得意で、大学では経営工学を専攻した。授業で「FORTRAN」(数値計算向けのプログラミング言語)を学んだことが、コンピュータに興味を持つきっかけになった。
そして、大学時代に熱中したスポーツが、ヨットである。
「最初は船酔いに苦しみ、先輩たちを助けるより『俺を助けてくれ』という感じでした(笑)。金、土、日曜日と神奈川県葉山町にある合宿所に出向くのですが、その前日に料理本を読み込み、食事を作って先輩たちを驚かせたりしていましたね。とはいえ大学時代は学部の講義とレポート提出、そしてヨット部の合宿の繰り返しで、勉強とヨットの両立にはだいぶ苦労しました」
理系学部生としてはめずらしく運動部で活動し、忙しい日々のなかでも、楽しむことを忘れない充実した学生生活を送る姿が思い浮かぶ。ちなみに櫻井社長は、艇の舵とりとメインセールの操作を担う「スキッパー」として、出場したセーリング競技の大会で上位進出の成績を残している。
創業者・矢野恭一氏の思いに共感し入社を決意
1983年、櫻井社長はセックに入社した。当時同社は創業13年目、成長への階段を上り始めた新興のベンチャー企業だったが、社員はまだ30名足らずで、売上高も3億円を超えたばかりだったという。櫻井社長は、なぜそんなセックを就職先として選んだのか。
「一番の理由は、創業者である矢野恭一社長(当時)の生き方や考え方に共感したことです。大学の研究室の教授に紹介されて会いに行ったのですが、創業時の思いや『リアルタイム技術』の可能性を、とても熱く語っていました。それを聞いて、私も社会の発展に貢献できるエンジニアになりたいと思い、入社を決意しました。『セックはまだ小さい会社だけど、これから一緒に大きくしていこう』という言葉が印象に残っています」
新入社員時代の思い出は尽きない。「火を噴いているプロジェクト」(櫻井社長)を手伝うために徹夜続きの日々を送ったことなど、現在なら少々問題になりそうなエピソードが満載である。ただ、仕事はおもしろかった。ダムや電力会社など社会インフラに関わる仕事に携わることが多かったこともあり、絶対に止まってはいけないシステムを担っているというプライドを強く感じていたと当時を振り返る。
「当時のシステムの開発は、主に客先のコンピュータを使用して行っていました。電力関係のシステム開発では北海道から九州まで、全国の電力会社を飛び回りながら仕事をしていました。おかげで入社して3年ぐらいはほとんど自宅に帰れませんでしたが、いろいろなことを学ぶことができ、本当に楽しい日々でした」
セックのあるべき姿
その後櫻井社長は、社会インフラのシステムから、位置情報サービスや地上デジタル放送用ブラウザなどのソリューション開発、さらには低炭素化社会の実現に向けた環境エネルギー分野の研究開発など、セックの成長とともに広がっていった事業領域の最前線で開発を担い、仲間とともに成功へと導いた。
開発部門の要職を歴任した櫻井社長は、2019年4月、代表取締役社長に就任する。「人をまとめながら仕事を進めていくことは好きでしたが、社長を目指してきたという感覚は一切なかったです」と語るが、「トラブルで滞っているプロジェクトに自ら乗り込んで、苦しんでいる社員に手を差し伸べる作業が好きですね」という感覚は、同社のリーダーとしてこれ以上ない資質であろう。
「現場で逃げるわけにはいきませんから、腰を落ち着け、何が問題でどこに対応しなければいけないか、しっかり読み取っていきつつ道筋をつけるという作業は、大事なことだなと思います」。櫻井社長には、まさに開発部門の「スキッパー」のごとく、風を読んで舵をとり、セックのイノベーションの連鎖を現場で先導してきたという実績があった。
前任の秋山逸志社長(現・代表取締役会長)からバトンを受け継いだ時、すでに自社の将来に向けてのビジョンは明白だった。それは、「社会の安全と発展のために」という企業理念を堅持していくことだ。
「それがセックのあるべき姿であり使命です。『リアルタイム技術』は、社会の進化に貢献してこそ意味あるものになる。この企業理念と、おもしろいこと、難しいことに果敢にチャレンジしつづける企業風土をビジネスとして具現化し、未来へと継承していくこと。それが代表取締役としての責務だと考えています」
社員と企業、企業と社会の新たな関係の構築に向けて
セックの新卒採用のためのHPには、「人生に刻む一瞬」というページが設けられている。そこでは同社で働くエンジニアが体験した、その後の人生すらも変えてしまうような“心に刻まれた”エピソードを紹介している。では櫻井社長にとっての「人生に刻む一瞬」とは?
「ソフトウエアの開発では、扱うデータを条件に従って並び替えるソート処理が必要になることがよくあります。このソートにはさまざまな処理手法があって、それを教えてもらったことがありました。その後、電力会社向けの開発でプロジェクトリーダーになった時に、学んだ処理手法をプログラムに組み込んだところ、それまで数時間かかっていた処理を数秒に短縮できたことがありました。エンジニアとしてこのうえない達成感をおぼえ、また客観的に誰が見ても否定できない結果を導くことができるのが、技術の力であると実感しました」
櫻井社長はこのことがあって以降、技術をしっかりと学んでいくことが大事だと改めて感じたという。セックは新入社員の技術研修を、入社後半年間みっちりと行うことでも知られる。「基礎の基礎をちゃんと勉強するからこそ応用が利くということを、ぜひ若いエンジニアの皆さんに感じとってもらいたい」と語る。
一方で櫻井社長は、「これからのビジネスパーソンはオンとオフの切り替えが大切」と強調する。自身も子供が小学3年生の頃から約30年、少年野球チームの監督を務めてきた。現在は家庭菜園での野菜づくりや手料理、石垣島でのダイビングなど多彩な趣味を持つ。櫻井社長は、セックが豊かな社会の実現に貢献する企業であり続けるためには、何よりもまず社員自らが心豊かな人間でなければならない。その手本になりたいと付け加えた。
「日本初」「世界初」の技術とシステムの創造に心血を注いできた櫻井社長は、同時に社員と企業、そして企業と社会のあるべき関係を模索しつづけている。それは、近年注目されている企業の社会的価値やサステナビリティ経営の先駆をなすものといえる。櫻井社長がセックをどのような地平に導いていくのか、期待を込めて注視していきたい。
profile
櫻井伸太郎(さくらい しんたろう)
1958年、東京都生まれ。1983年に株式会社セック入社。開発本部副本部長などを歴任した後、2006年に上席執行役員に就任。2016年4月に開発本部長に就任し、現在も本職を兼任する。2016年6月に取締役、2019年4月に代表取締役社長に就任した。