赫裕規氏の歩んできた道のりは、 まさに山あり谷ありであった。 実家から脱出することばかり考えていた少年時代、 父であり高速の創業者である規矩夫氏への反発、 兄の転身で思いがけず就くことになった代表取締役の座 ……。 卓越した先見性と実行力で高速グループの成長を牽引するトップリーダーの半生を追った。
赫 裕規
Yuki Terashi
1971年、 宮城県生まれ。 東京経済大学経営学部卒業。 積水化成品工業勤務の後、 2000年、 高速に入社。 2008年6月、 取締役連結事業本部長に就任。その後、富士パッケージ(現 ・ 高速シーパック)代表取締役社長、専務取締役連結事業本部長などを歴任し、 2013年6月、 代表取締役副社長に就任。 2014年4月、 代表取締役社長に就任。 2021年6月より代表取締役 社長執行役員。
中学生活の締めくくりに1カ月の家出を敢行
赫社長は1971年に宮城県仙台市に生まれた。 父は高速の創業者であり、 初代社長の赫規矩夫(きくお)氏。 2歳上に現在、 高速の代表取締役会長を務める赫高規(こうき)氏がいる。 「兄は親の言うことをよく聞いて、 勉強もよくできた。 私は親の言うことは聞かないし、 勉強もしないやんちゃな子供でした」
赫家がどうであったかは別として、 当時の日本の家庭では、 何事においても長男が優先され、 いわゆる跡継ぎとして大切にされた。 次男坊であり、 優秀な兄と比較されがちな裕規少年にとって、 家庭はあまり居心地のよい場所ではなかったようだ。
そして赫社長は思わぬ行動に出る。 中学校の卒業式の翌日、 かねてから計画していた家出を敢行したのだ。 数日間、 親に無断で旅に出るといった小さな冒険ではない。 都合1カ月に及ぶ本格的な失踪劇だ。
「大阪の新聞販売店に住み込みで働きました。 2週間くらい経った頃、 店主の親父さんから、 親も心配しているだろうから連絡だけでもしたらどうかと言われて電話をしたら、 数日後に母親がやってきて、 ボロボロ泣かれて困ったのを覚えています。 いったん自宅に帰って父親と話し合うことになったのですが、 仙台行きの飛行機が濃霧のために伊丹空港に引き返してしまった。 これは神様が帰るなと言っているんだと(笑)。 そう考えて家出を続行することにしました」
赫社長は働きながら勉強し、 大学入学資格検定(当時)を受けて大学に行くつもりだったが、 店主から、 とにかく一度実家に戻ってはどうか、 ダメならまた戻ってくればいいからと説得され、 また父の規矩夫氏からも高校は生涯の友達を作る場所だから絶対に行ったほうがよいと言われて、 実家に戻る決心をした。 こうして赫社長の家出は終了した。
コーラ1日300杯 ── 西武球場のアルバイトで商才を発揮
実家から離れたいという赫社長の思いは、 東北学院高校の3年間、 心の底で燻り続けていたようだ。 大学は東北学院大学ではなく、 東京都国分寺市に本拠を置く東京経済大学の経営学部に進学した。 大学では心機一転、 勉学にも真剣に取り組んだが、 それ以上に力を入れたのが西武球場でのコーラ売りなどのアルバイトだった。
「時給は600円と安かったのですが、 1杯10円の歩合がつきました。 しかも100杯以上売ると、 50杯ごとに1杯目にさかのぼって歩合がプラス5円になる。 当時、 アイドル的な人気を博していた潮崎哲也投手(西武ライオンズ)が投球練習をする時、 ブルペン前に集まってきたファンに売るとか、 修学旅行の団体客が観戦した際には、 コーラをすべて自分から買ってくれれば、 先生の分はサービスするとか、 いろいろと工夫したおかげで平日でも300杯売ることができました。 歩合は1杯30円、 つまり固定給以外に9,000円が入るのですから、 とてもやり甲斐がありました」
家出といい、 アルバイトといい、 赫社長のアイディアと行動力は驚くばかりだ。 とても創業家の御曹司とは思えない。
今に活きるメーカーと商社での経験
就職を控えた大学4年生の時、 冒険心が旺盛な赫社長は、 数年間どこかの会社で経験を積んだ後に、 自ら新しい事業を立ち上げたいと考えていた。
「将来は起業したいと父親に話すと、 世の中に起業したい人がどれだけいるか、 また運よく起業できたとして、 そのうち何パーセントの人が3年後も会社を続けていられるか、 よく考えろと言われました。 幸い、 赫家には高速という会社がある。 新しい事業を手がける子会社を立ち上げ、 大きくしていくのも起業のひとつの形だろうと説得され、 その言葉に従うことにしました」
赫社長はすでに得ていた内定を辞退し、 1995年、 高速の取引先である積水化成品工業に入社することになる。 2000年には同社を辞めて高速に入社するが、 入社後の3年間は、 三井物産に出向しているから都合8年、 外のメシを喰ったわけだ。 メーカーと総合商社の両方で経験を積んだことが、 後に高速で事業戦略を策定・実行する際に大きく役立ったと赫社長は述懐する。 高速は食品軽包装資材の専門商社だが、 同時に独自の製品開発と生産を手がけるメーカー部門も有する。 高速の事業に専心するまでの8年間の蓄積が現在の舵取りに活かされているのは、 いうまでもない。
いつの間にか父の正統な後継者になっていた
グループ企業である高速シーリング(現 ・ 高速シーパック)などを経て、 2005年、 赫社長は高速の執行役員業務部長に就任した。 以来、 執行役員として、 あるいは取締役として経営の一翼を担ってきた。 2013年には代表取締役副社長、 翌年には代表取締役社長に就任した。 しかし、 赫社長は将来自分が社長になることを想定していなかったという。 父を継ぐのは2歳上の兄、 高規氏であり、 自分は兄のサポートができればと考えていた。
「2008年頃だったでしょうか。 弁護士の資格を持っていた兄から、 弁護士業に軸足を置きたいから、 おまえが父の後を継ぐべく努力しろと言われました。 最初は驚きましたが、 まあ仕方ないと(笑)。 それまでは、 自分が管掌する部門の成長を中心に考えていましたが、 それからは会社全体の課題や戦略を考えるようになりました」
社長である父 ・ 規矩夫氏への思いも大きく変化した。 子供の頃は、 家に縛られることを嫌った赫社長だが、 自分が社会人として経験を重ねるなかで、 父の思いを深く理解できるようになり、 同時に経営者としての父の偉大さにも気づかされた。 赫社長はいつの間にか、 あれほど反発した父の正統な後継者となっていたのだった。
家族の支えがあったから、現在の自分がある
社長に就任してから8年が経過した。 この間、 赫社長は、 高速の強みのひとつであるデザイン部門の拡充や従業員満足度向上に向けて、 思い切った処遇の改善や働く環境の整備を行うなど、 常に10年先を見据えた経営戦略を打ち出し、 グループの成長を牽引してきた。
多忙を極める日常のなか、 楽しみは家族との語らいと趣味のマラソンだ。 2003年に結婚した奥さまとの間には、 長女(高校2年生)、 次女(中学1年生)、 長男(小学5年生)の3姉弟がいる。 家族がいたからこそ、 ここまでやってこられたと感じている。 週に1、 2回しかトレーニングはできていないが、 マラソンでは仙台国際ハーフマラソンに2018年、 2019年、 そして2022年と3回、 社員や取引先とともに出場し、 2022年は初めて2時間を切るタイムで走り切った。
42歳の若さで社長の座に就いた赫社長はまだ51歳。 業界内はもとより、 広く資本市場や産業界がその手腕と舵取りに注目している。 今度はどんな勝負手で私たちを驚かせてくれるだろうか。