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200年企業の“ものづくりのDNA”

「しごと」に対する誠実さと絶えざる革新の両立 200年企業の“ものづくりのDNA”

2026年2月18日
1803 清水建設
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高度な技術力でわが国屈指の総合建設業(ゼネコン)として発展を続けてきた清水建設。
その源流は、 1804(文化元)年までさかのぼる。
同社は、日本の建築史に残る数多くの建造物を完成させ、社会の発展に貢献してきた。
原動力となったのは、誠実なものづくり、顧客第一の姿勢を大切にしつつ、進取の精神で新たな挑戦と革新を積み重ねたことだ。
これは何代にもわたり育まれ、受け継がれてきたDNAである。
<『アイアールmagazine』2018年夏号の記事を一部修正し再掲>

※タイトル写真
奥) 明治期の手斧始(ちょうなはじめ)の儀式の様子 1911年『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』より
前)手斧始儀式道具 1636年、日光東照宮の本地堂の上棟式に用いられたもの。後に清水建設が譲り受け、現在も同社が新年の仕事始めに行う手斧始の儀式に用いられている

 清水建設は、わが国を代表する総合建設業の1社である。220余年の歴史を有し、高い品質と技術力で日本の建設業をリードしてきた。
 その歴史を支えてきたのは、誠実なものづくりと顧客第一の姿勢、そしてたゆまぬ技術革新である。

 同社が誇る“ものづくりのDNA”はどのように生まれたのか。

 

〝2人の喜助〞の先見性と革新性

 礎を築いたのは、創業者・清水喜助(初代)と二代清水喜助である。

 初代喜助は、故郷の越中小羽(現・富山県富山市小羽)を離れ宇都宮で修業を積み、日光東照宮の修理工事に参加。その後、1804(文化元)年に江戸で大工職としての第一歩を踏み出した。
 同社ではこの年を創業年としている。

 初代喜助は優れた技量と誠実な人柄で順調に顧客を増やし、江戸城西丸造営や各藩の御用達を務めるなど着実に実績を上げ、名工としての声価を高めた。

 1859(安政6)年、初代の死を受けて二代喜助を襲名した弟子の藤沢清七は、開港に伴い諸外国との交流が盛んになっていた横浜を仕事の拠点とした。急速に発展する横浜に市場を見出したのは、その後主流となる洋風建築の技術習得に最適な場所と考えたからだ。

 1868(慶応4)年、二代喜助は外国人専用の洋風ホテル・築地ホテル館を完成させる。これは江戸幕府発注のプロジェクトだったが、当時の幕府は財政が逼迫していたため二代喜助は建設費用の調達と建物の施工に加え、ホテルの経営までを請け負った。現在のPFI方式*1の走りである。


*1 Private Finance Initiative。民間が事業主体として資金やノウハウを供出し、公共事業を行う事業形態
 

 以降も1872(明治5)年には日本初の銀行建築である三井組ハウス(後の第一国立銀行)、1874(明治7)年には為替バンク三井組をいずれも和風と洋風を組み合わせた「擬洋風建築」という新しい建築様式を用いて完成させた。これらの建物はいずれも東京の名所となり、多数の錦絵に描かれたことが全国に擬洋風建築が広まる契機となった。このことは二代喜助の先見性を何よりも物語る。まさに日本近代建築の嚆矢といえるだろう。

 このように“2人の喜助”は、江戸末期から明治維新へと続く激動の時代を駆け抜け、今日に至る清水建設の礎を築いたのである。

 

DNAに刻まれた渋沢栄一の教え

 さらに同社のDNAを語るうえで欠くことのできない存在が、近代日本の「資本主義の父」と称される渋沢栄一である。

 渋沢との出会いは、二代喜助が手がけた三井組ハウスの発注者が両者を引き合わせたことに由来する。建物の出来栄えと何事にも果敢に取り組む二代喜助の姿勢を高く評価した渋沢は、自邸建築を任せるほど信頼を寄せていた。

 

 1887(明治20)年、三代当主が急逝し、後継者となる四代はまだ8歳だったため、渋沢を相談役として迎え、経営指導を仰いだ。

 渋沢の教えのひとつが「論語と算盤」であった。「顧客と社会のためになる仕事を誠実に行い、その上で適正な利益をいただく。儲けに走り、道理を忘れるような経営は、決して行ってはいけない」というもの。初代喜助の信念「誠心誠意仕事に取り組み、良いものをつくって信頼される事」とも相通じ、同社の社是にもなっている。

 また渋沢は、民間の建築工事を中心とする営業方針を示した。一品生産のものづくりに対し工事の規模にかかわらず親切に取り組み、同社が「定用工事」と呼んでいる日常的な建物管理や修繕などの仕事も大切にせよと説いた。

 清水建設はこの教えを事業の根幹として、多くの実績を重ねていく。1907(明治40)年には日本初の本格的鉄骨建築、日本橋丸善本店ビルの施工に着手。同ビルは1923(大正12)年の関東大震災で建物内に火が入り全壊したが、後の調査で骨組み自体は激震を耐えたことが判明し、構造の優秀さが実証された。また昭和初期に手がけた三井本館では、大型の建設機械を活用した近代的な施工法を導入。同建物は1998(平成10)年に国の重要文化財に指定され、その秀麗な姿を今に残している。

 一方、1927(昭和2)年の昭和金融恐慌をきっかけに、建築工事の受注量が減少。事業継続のために経営改革を迫られ、同社は土木事業の強化に取り組んだ。1932(昭和7)年には、当時としては国内有数の規模を誇るダムであった矢作水力(後の中部電力)泰阜発電所を受注。しかし、本格的なダム建設に初めて取り組む同社にとってこの工事は想像以上に厳しかった。だが、困難のなかで技術力を磨き結束力を高めた経験が、その後の土木事業の発展を促すことになる。

 

現存する東アジア唯一のル・コルビュジエ作品

 終戦から高度経済成長の黎明期においても、清水建設は注目すべき建築物を数多く手がけてきた。なかでも特筆すべきは、20世紀を代表する建築家ル・コルビュジエを設計者に迎え、1959(昭和34)年に竣工した国立西洋美術館であろう。同建物は、2016(平成28)年に「ル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献-」の作品群のひとつとして世界文化遺産に登録され、歴史的な名建築として高く評価されている。

 建物のデザインの要となる打放しコンクリートの仕上げには当時高い施工技術が必要とされたが、繊細かつ丁寧な仕事で設計者の意図を見事に具現化した。完成写真を見たル・コルビュジエは「仕上がりは完璧で満足だ」と語ったという。なお、ル・コルビュジエの作品はヨーロッパには多く残されているが、東アジアでは国立西洋美術館が唯一のものである。

 こうした貴重な建物を保全していくうえでの最大の懸念は、地震による被害だ。同美術館も1995(平成7)年の阪神・淡路大震災をきっかけに、耐震対策が検討されることになる。この頃の耐震対策は筋交いや柱、梁の補強が主流だったが、それらは作品の意匠を損なう恐れがある。そこで日本で初めて建物の外観を変えることなく耐震性能を向上させる免震レトロフィット工法を採用。清水建設は1998(平成10)年、建物を動かさずに地下を掘削し、鋼製杭で一時的に建物を仮受けした後、免震装置を取り付ける難工事をやり遂げた。

 この工事が高く評価され、同社はその後も大阪市中央公会堂の保存・再生工事や日本銀行本館における免震レトロフィット工事など、同様の工事を数多く手がけている。

 

困難な工事に挑み 国立代々木競技場を完成

 1964(昭和39)年に開催された東京オリンピックは、戦後の日本の復興をスポーツを通じて世界にアピールする絶好の機会であった。同社は大会のシンボルとなった東京・代々木の国立代々木競技場第一体育館(旧国立屋内総合競技場本館)の施工を担当。これは設計に丹下健三、構造に坪井善勝、設備に井上宇市と、当時の日本建築界を代表する能才が結集した一大プロジェクトであった。同社は丹下の大胆かつ独創的なデザインに加え、世界に類を見ないケーブルによる吊り屋根構造という困難な工事に挑んだ。

 技術的なハードルは想定以上に高かった。施工を進めるなかで、メインケーブルから直角方向の屋根を支えるワイヤーに鉄板の屋根材を載せると、重みで屋根が変形することが判明。急きょワイヤーを吊り鉄骨に変更するなど、工事は試行錯誤の繰り返しだった。それでも工事関係者は「オリンピックのために絶対に完成させる」との使命感で作業にあたった。そうして着工からわずか18カ月で無事建物を完成させた。

LNG地下タンクでエネルギー供給に貢献

 東京オリンピックの余熱漂う昭和40年代は、石油の消費量が増大した高度経済成長期。日本のエネルギー政策は転換期を迎え、ガス・電力会社は安定供給と環境保全を両立するエネルギーであるLNG(液化天然ガス)の導入を図った。

 しかしLNGはマイナス162℃の極低温の液体であり、地震国日本において大量かつ安全に貯蔵する技術はなかった。清水建設はいち早く大型地下タンクの技術開発に着手し、1970(昭和45)年に東京ガスや石川島播磨重工業(現・IHI)とともに国内初のLNG地下タンク(容量1万kL)を完成させる。
 だが同タンクは周辺の地盤凍結を抑制する設備が不十分であったため、問題解決のための研究とあわせ、オイルショック以後利用が拡大したLNG貯蔵の大容量化の技術開発に邁進。1981(昭和56)年には凍結防止用ヒーターを備えたLNG地下タンク(同9.5万kL)が竣工した。
 この時期になると同業他社の市場参入で競争は激化したが、同社は地下に大空間を建設する技術(大深度高強度地中連続壁)を他社に先駆け開発し、1989(平成元)年には容量14万kLのタンクを完成させた。
 2013(平成25)年には直径72m、深さ62m、容量25万kLという世界最大規模のタンクを建設するに至っている。

 手探りで始まった清水建設の地下タンク技術は着実な成果を上げ、現在も国内のLNGタンクの貯蔵容量のトップシェアを有している。それは土木における同社の実績・地位を飛躍的に向上させ、名実共に総合建設業として認められる原動力となった。

国境を越えた技術と信頼、そしてさらなる拡大へ

 こうして国内で確かな実績を重ねた同社は、昭和40年代後半からアジア・中近東、北米・ヨーロッパへと事業を展開させる。1974(昭和49)年にはシンガポールに営業拠点を構え、東南アジアを中心に国内と変わらない工期順守と質の高い施工で顧客の信用を獲得。現地企業発注の案件を数多く受注するなど、海外でも「技術と信頼のシミズ」のポジションを確立させていった。
 近年では世界各地で生産施設や超高層ビル、病院、橋、地下鉄などに携わっており、各国の発展と人々の快適な暮らしに貢献している。

 一方、1970年代半ばから日本は低成長時代に突入する。同社は事業範囲を拡大しエンジニアリング事業を推進。生産設備の制御・物流、プラント・環境などへの取り組みを本格化させた。

 また2002(平成14)年には投資開発事業本部を立ち上げ、建設事業で蓄積した技術とノウハウを活かした独自の商品企画で、国内のオフィスビルや物流施設などを開発してきた。2011(平成23)年にこの事業でも海外に進出。これまでの実績を活かし、今では東南アジアでコンドミニアムやデータセンター、オフィスビル、北米で住宅開発などを行っている。
 

持続的成長に向けて

 挑戦は続く。
 近年は、同社が未だかつて手がけたことのないビッグプロジェクトを次々と受注。2020(令和2)年には堤高116m、総貯水容量約1億㎥を誇る八ッ場ダム、2023年(令和5)年には日本最大級の規模である高さ約330mの麻布台ヒルズを完成させ、建設技術に一層の磨きをかけた。その一方で、発電能力の規模や安定性から、再生可能エネルギーの中でも大きな可能性を秘めている洋上風力発電の大型風車建設を見据え、世界最大級の自航式SEP船を自社で建造するなど、企業の持続的成長を見据えた大型投資を行った。

 海外においては今後の注力エリアを東南アジア、北米、インドと定め、特に北米については建設事業だけでなく、投資開発事業やエンジニアリング事業と一体となって手がけていく方針であり、M&A実行による事業展開の加速も睨んでいる。

 人々の価値観の変容と多様化、技術の急速な発展など、現代は目まぐるしく変化している。
 しかし、創業からのものづくりに対する真摯な姿勢と「論語と算盤」の教えは、これからも変わることなく受け継いでいく。
 それらを基盤に、同社はこれからもたゆまぬ革新志向で時代を先取りする価値を創造し、持続可能な未来づくりに貢献していくことだろう。

 「しごと」に対する誠実さと、絶えざる革新の両立の先に清水建設の未来がある。

 

●会社概要(2025年3月31日時点)

概要
商号
清水建設株式会社
SHIMIZU CORPORATION
業種
建設業
創業
1804(文化元)年
決算月
3月
市場
東証プライム、名証プレミア
代表者
取締役社長 新村 達也
資本金
74,365百万円
発行済株式数
716,689千株
従業員数
単体11,163人/連結21,286人