アイアールmagazineの連載企画「名城は語る」。
日本各地の城を独自の目線で解説している人気コラムです。
悠久の時を超えて紐解かれる物語をお楽しみください。
あの孫正義氏が、男泣きに泣いたことがある。少し古い話になるが、2013年10月、ソフトバンクの取締役であり、ソフトバンクホークスの社長兼オーナー代行も務めた笠井和彦氏が闘病の末、鬼籍に入った。笠井氏は大学卒業後、富士銀行(現・みずほ銀行)に入行し、同行副頭取や安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)会長も務めた金融のエキスパートであり、定年後、孫氏に請われてソフトバンクに入社した。今の姿からは信じられないかもしれないが、当時のソフトバンクはまだまだ新興の企業。周囲は「副頭取まで務めた人間が行くような会社ではない」「考え直した方がいい」と諫めたと聞く。だが、笠井氏は21歳年下の孫氏に光るものを感じ、「異能の経営者と一緒に働くのも、おもしろい」と、銀行業界からIT業界への異例の転身を決断した。
ネットバブルの崩壊に社会が揺れていた時代である。ソフトバンクもその渦中でもがいているさなかだった。株価は下落、業績も低調で、インターネットサービス「Yahoo! BB」を打ち出し、年間1,000億円もの赤字が続くなかで、笠井氏は孫氏を陰に日向に支え続け、業績を軌道に乗せていった。爾来、ダイエーホークスやボーダフォンジャパン、スプリントなど、その後のソフトバンクの躍進の源となる大型買収を次々に成功させていくこととなるのだが、その決断や資金調達で悩む孫氏の背中を押したのもまた、笠井氏だった。
社会の行く先を的確に読み、リスクを取り、果断に決断していくカリスマ経営者として知られる孫氏。だが、どんなカリスマとて、ひとりの人間である。様々なことに悩み、恐れ、苦しむことがあるのは誰しも同じだ。そんな人間・孫正義の決断を陰から支え、共に戦った笠井氏は、まさに同志であり、盟友だった。笠井氏の遺影を前に、孫氏は涙で声を詰まらせながら、感謝と別れの想いを吐露したという。
一代で世界のホンダを創り上げた本田宗一郎氏と藤沢武夫氏、ウォークマンで世界に革命を起こしたソニーの井深大氏と盛田昭夫氏、松下電器産業を世界的企業に育て上げた松下幸之助氏と高橋荒太郎氏など、時代をリードする優れた経営者には、必ずといってよいほど優れた名参謀、No.2が存在する。どれだけ優秀な経営者でも、孤独な裸の王様では経営は成り立たない。経営の意思を体現し、代弁し、時には諫言し、共通の目標に向かっていくNo.2がいてこそ、組織はうまく回っていくものだ。
上杉景勝における直江兼続、今川義元における太原雪斎、武田信玄における真田幸隆・昌幸、高坂昌信(春日虎綱)、山本勘助*1。歴史に興味を持つ者であれば誰しも、その名を聞いたことはある武将ばかりだろう。天下人となった豊臣秀吉にも、羽柴秀長、竹中重治(半兵衛)、黒田孝高(官兵衛)、蜂須賀正勝(小六)など、戦国の世においても、名将の陰には必ず優れたNo.2がいた。
*1 山本勘助(晴幸)は、「甲陽軍鑑」では華々しい活躍が記されているものの、確実性の高い史料に記載がないため、その実在を疑問視されていた。近年の研究では徐々に復権を遂げつつある
今回取り上げるのも、こうしたうちのひとりだ。東北の名門、蘆名家を支え、「蘆名の執権」と呼ばれた男、金上盛備(かながみもりはる)。そして彼の居城、津川城である。金上氏は、「鎌倉殿の13人」にも登場した源頼朝の御家人、三浦氏に連なる佐原義連*2を祖とする名門だ。盛備はその15代目の当主にあたる。都から遠く離れた東北にありながらも、三度にわたる上洛経験があったといい、当時織田信長の配下として応対した羽柴秀吉が、盛備の教養の高さに感服したというエピソードも伝わる。今でいう、血統も実力も兼ね備えた社内随一の海外通のエリートとでもいうべき存在だったのではなかろうか。
*2 源平合戦の一ノ谷の戦いにおける鵯越の逆落としで先陣を切った人物である
当時の蘆名氏は、北に伊達氏、南に佐竹氏、西に上杉氏、と戦国の横綱・大関クラスに囲まれた地政学リスクの高い地を治めていたが、盛備は対上杉氏の最前線となる津川城を居城としながら、蘆名家の当主、蘆名盛氏と二人三脚で内政・外交にとまさに八面六臂の活躍。No.1とNo.2の息が見事に嚙み合った蘆名氏は最大版図を築くことに成功する。
だが、この隆盛の陰には、当人たちも気づかない火種が燻っていた。1500年代初頭の伊達稙宗の時代あたりからだろうか、東北の諸大名は競うように政略結婚によって勢力を拡大し始めた。相互に姻戚関係を結ぶことによってむやみに争うことを回避し、地域の安定を図るという効果もあったが、一方で利害関係が複雑化し、しがらみに縛られ、東北全体に閉塞感が漂うようになっていった。
その後、盛氏の跡継ぎである嫡男盛興が急死したことを受け、近隣の須賀川城主である二階堂氏から盛隆を迎え、家督を継がせたあたりから、これに反発する重臣たちの間に不協和音が生じ始める。そして天正8(1580)年、重石となっていた盛氏の死去を境に、蘆名家の凋落は歯止めが利かなくなっていく。盛隆はそのわずか4年後、寵臣であった大庭三左衛門に襲われ急死。生後1カ月の亀王丸が家督を継ぐも、疱瘡により3歳で死去してしまう。
筆頭家老として暗雲漂う蘆名の行く末を任された金上盛備は、境を接する有力大名から跡継ぎを迎え、安泰を図ろうとする。取り得る選択肢は2つ。北方の伊達家から伊達輝宗の二男、小次郎*3を迎えるか、南方の佐竹家から佐竹義重の子、義広を迎えるかのいずれか。伊達と佐竹、どちらが信用に足るのか。悩んだ末に盛備が選んだのは佐竹との縁組だった。この頃の伊達家は政宗が家督を継ぎ、情け容赦のない領土拡大戦で近隣諸国を震え上がらせていた。政宗にとってみれば、姻戚関係というしがらみに縛られ、身動きがとれなくなっている現状が我慢ならなかったのだろう
。古く、ぶ厚い常識の壁がなんとも歯がゆく、自由競争を阻害する、許しがたいものだったかもしれない。逆に盛備の目には、政宗が辛うじて均衡を保っていた東北の平和を乱す者として映ったのだろう。隙を見せれば蘆名ごと吞み込まれてしまうという恐れもあったかもしれない。家中には伊達家を推す勢力もあったが、盛備はこれを黙殺し、強引に佐竹との婚姻を進めてしまう。これが最悪の結果を招いた。
*3 伊達政宗の弟。小次郎を寵愛する母義姫による政宗毒殺未遂の責めを負わされ、政宗に誅殺される(後世の創作説もあり)
この決断により、家中は完全に分裂。好機とみた政宗は、離反した蘆名家の家臣を糾合し、牙を剥いてきた。天正17(1589)年6月5日、蘆名軍と伊達軍は、磐梯山南麓の摺上原において激突する。結果は蘆名の惨敗に終わった。敗北を悟った盛備は、当主義広をかろうじて逃がし、自らは伊達家の片倉景綱隊、そして本陣の政宗に向けて最後の突撃を敢行、奮闘の甲斐なく馬上で壮絶な最期を遂げる。
上杉や佐竹という強大な勢力と互角に渡り合い、既存の常識を打ち壊して迫りくる伊達政宗が繰り出す様々な謀略や圧力から蘆名を守り続けた盛備。だが、どんなに優秀な男でも、たったひとりでは、崩れゆく蘆名を止めることはできなかった。
翌天正18(1590)年、蘆名攻めや小田原への遅参を咎められた伊達政宗は、死装束で豊臣秀吉に謁見。力で時代の壁を打ち破ろうとした男は、さらに巨大な時代の流れの前に、成す術もなく屈服することになる。結果として敗れた盛備だったが、蘆名随一の忠臣として後世高い評価を得ている。嘉永3(1850)年、会津藩主松平容敬は、蘆名家に忠義を尽くした忠臣を称える三忠碑を建立。その筆頭には、金上盛備の名が刻まれた*4。
*4 金上盛備が最後まで蘆名家を守ろうとしたように、主君への忠義を重んじる朱子学の最高傑作が幕末の会津藩だったのかもしれない。その代償が会津戦争での悲劇だとしたら、これも歴史の皮肉というべきか
盛備の居城、津川城*5にはその後、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明らが入封するが、1627年、幕府の命により廃城となる。阿賀野川と常浪川に挟まれた麒麟山に築かれた天嶮の要害、津川城の雄々しく、しかしどこか哀愁も感じさせる雄姿は、強大な外敵に対し、自らを盾として主家を守り続け、孤軍奮闘したNo.2、金上盛備の生き様そのものなのかもしれない。
*5 津川城址はよく整備されており、天嶮の要害の割には登城しやすい。城址には石垣などの遺構も残る
昨今、多様性という言葉が叫ばれて久しい。経営陣の女性比率の向上や、外国人の雇用、障がい者の雇用。どれも大事なことには違いないが、本質はそこにあるのではない。異なる立場、異なる考え方を認め、それらが健全にぶつかり合って、より良い結論やイノベーションを生むことこそが重要なのではなかろうか。
この稿を執筆中、安倍元総理の訃報が飛び込んできた。ロシアのウクライナ侵攻にせよ、SNSにおける炎上・いじめにせよ、目を覆いたくなる暗いニュースが続く。近年、意見を異にする他者の存在を許せず、力で屈服させようとする動きが目立つのは、何か良からぬ兆しなのだろうか。異なる他者に対する寛容さ、多様性を失った社会にも会社にも、明るい未来はきっと来ない。経営者とNo.2に代表される関係性は、たぶん、その多様性の最初の起点だともいえるのではないだろうか。
安倍元総理のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
津川城跡
住所:新潟県東蒲原郡阿賀町津川字城山(Google Mapで表示されます)交通:JR磐越西線「津川駅」から徒歩30分 / 津川駅から新潟交通観光バス「県立病院前」下車
参考:阿賀町観光協会ホームページ