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坂本城<br />
〔滋賀県大津市下阪本〕

幻影の城 坂本城
〔滋賀県大津市下阪本〕

2023年1月13日
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アイアールmagazineの連載企画「名城は語る」。
日本各地の城を独自の目線で解説している人気コラムです。
悠久の時を超えて紐解かれる物語をお楽しみください。

 テスラの株価下落が止まらない。
 2020年7月に1,135ドルという史上最高値を付け、トヨタ自動車の時価総額を超えたことが大きな話題となったものの、2023年1月には110ドルにまで急落*1。EV専業メーカーとして、クルマというハードだけでなく、ソフトウェアのアップデートにより機能を高めていくという、従来の自動車会社とは異なるビジネスモデルや、CEOのイーロン・マスク氏の言動も相まって、世界的な注目を集める存在となったテスラ。生産台数や事業規模で比較すれば、トヨタやVW(フォルクスワーゲン)には遠く及ばない同社だが、投資家は、同社が持つ事業の将来性や、経営者のカリスマ性に大きな可能性を認め、多額の資金を投じたわけだ。
 期待値が実態以上に大きく膨れ上がることは、株式市場では決して珍しいことではない。投資家は、過去や現在の業績はもちろんだが、将来の可能性という「目に見えないもの」に価値を見出し、投資判断を行うものだ。
 ただし、こうした場合、前提となるカリスマ性に傷がついた時、すべては脆くも崩れ去ってしまうこともまた、事実である。Twitter社の買収における同社幹部の解雇、半数に及ぶ従業員の退職、マスク氏のTwitterでの不安定な発言といった一連の出来事が、本来直接的には関係しないはずの本業に、こうも影響を与えてしまう。投資家が信じたはずの「見えない価値」は、果たして砂上の楼閣であったのか。

*1  2023年1月5日時点

▲ 夕暮れの琵琶湖から比叡山を望む

 昨今の株式市場では、「目に見えないもの」の価値が非常に重要視されるようになった。非財務情報といわれるものだ。財務諸表(損益計算書、貸借対照表、キャッシュ・フロー計算書など)以外の情報を指すため、厳密にいうと全てが目に見えないわけではない(数値化できるものも多くある)のだが、数字の裏にある戦略や、背景となる考え方、社員や社会との関わり方など、これまで可視化されていなかった部分の情報開示が進んでいるのは確かで、より企業の価値を浮彫にし、投資判断を行ううえで重要な要素となっている。

 改めて考えてみると、私たちが何か判断する時には、実は目に見えない要素が大きく作用していることが多い。効率性重視の傾向が強い世の中とはいえ、たいていは「期待」や「信頼」、「予測」など、ファクト以外の要素が入るものであるし、そうでなくては面白みがないとも言える。
 見えないものに価値を見出すということでいえば、宗教もそうである。そもそも日本人は宗教観が薄いと言われる。クリスマスを祝った1週間後には、どこかの神社仏閣で神様や仏様を拝んでいることを考えれば、そう言われても致し方ないのかもしれない。多くの日本人にとって、宗教とはイベントであり、昨今の某宗教団体に関連する騒動などがなければ、宗教について意識することもない人が多いのではないだろうか。もちろんそんな不信心者ばかりではないことはわかっている。宗教に深く帰依し、心の拠り所としている方も多くいるだろう。
 時代を遡るほど、その傾向は強くなる。今でこそ、かなりのことが科学的に解明されるようになったが、古代や中世においては、疫病や災害、気候変動をはじめ、大半は説明できないことばかりだ。これらはすべて、天や神、仏の意思であると考えられていた。
 もともと日本には、大和朝廷から続く神道があったが、その後6世紀頃に仏教が伝来し、平安仏教や鎌倉仏教など、数多の宗派の興隆によって、より人々の生活に根差したものへと膾炙していった。だが、時代が下るにつれ、いくつかの教団は組織化されていき、全国に熱心な門徒を抱える大勢力となっていく。現代の感覚からすると、宗教とは基本的に平和的なものであるという認識が強いだろうが、この時代の宗教勢力は、場合によっては大名をもしのぐ強大な武装勢力だった。天文元(1532)年には法華宗が浄土真宗の山科本願寺を焼き討ち。浄土真宗は京都を追われ、大坂の石山へと逃れることになった。天文5(1536)年の天文法華の乱では、比叡山の僧兵と近江六角氏の軍勢が、京都法華宗の寺院21カ所を焼き討ち。下京全エリアと上京の1/3が焼け、死者は数千から1万人にのぼったという。今では考えられないが、当時の宗教対立は、まさに血で血を洗う抗争でもあったのだ。比叡山延暦寺や石山本願寺に代表される、市や座といった市場における許認可権等を背景とした強大な経済力や、多くの僧兵を擁する軍事力は、戦国期の大名たちにとっても大変な脅威となっていった。

 先日放送が始まったばかりのNHK大河「どうする家康」をご覧になった方もおられると思うが、主人公であるマツジュン、もとい、徳川家康は、この後、永禄6(1563)年の三河一向一揆で多くの家臣が一揆衆側につくという危機を迎えることになる。上杉謙信は、祖父の代から3代にわたり、越中一向一揆に悩まされた。そして宗教勢力との戦いといえば、織田信長だ。元亀2(1571)年から天正2(1574)年にわたる三度の長島一向一揆との戦いでは、最終的に2万人にのぼる門徒が犠牲になった。石山本願寺とは、元亀元(1570)年から天正8(1580)年の10年にわたり血みどろの戦いを繰り広げた。また、本願寺との戦いが続くさなかの元亀2(1571)年には、かの比叡山延暦寺焼き討ちが行われている。信長の生涯最大の敵は、信玄でも謙信でもなく、宗教勢力だった。



▲ 比叡山延暦寺

 聖域を焼き払い、女子どもに至るまで容赦せず手に掛けた信長を非難する者は専門家のなかにもいる。山科言継の日記「言継卿記」や御所に仕える女官たちによる日記「お湯殿の上の日記」などによれば、全山が火の海になり、一宇も残らず灰になったとあるが、最新の研究によれば、この時確実に焼亡したと認められるのは、根本中堂と大講堂のみだったとされている。実際に焼き討ちや残虐な行為はあったのだろうが、後世かなり盛られた部分もあると思われる。いずれにせよ、当時の人々にとって、宗教勢力という聖域に踏み込むことが、それほどに衝撃的だったということなのだろう。
 イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの書簡「日本耶蘇会年報」のなかに、面白いことが書いてある。比叡山焼き討ちについて、武田信玄が信長を仏敵として非難した書状*2への返信として、信長は自らを「第六天魔王」と称したというのだ。こうしたことからも、信長は神も仏も信じないイメージが定着してしまっているが、実際の信長は、実は宗教に理解がある方である。キリスト教なども含め、自由な布教活動を弾圧するようなことはなかったし、宗派同士の争いが起こった際*3にも、両者を同じ舞台に上げ、武力ではなく言論で決着を図るように取り計らっている。
 こうしたことからも見てとれるように、本来信長には、宗教活動の否定や宗教団体を弾圧する意図はなかったと思われる。結果として対立したのは、当時の宗教勢力が自らの既得権益を守るために政治介入、武力介入する存在だったからであり、目指したのは進化を拒む旧弊の破壊だったのだろう。*4

 比叡山延暦寺焼き討ちの後、信長は腹心明智光秀に命じ、延暦寺の門前である近江坂本に、高層の大小天守が聳える水城、坂本城を築かせる。湖畔に築かれたこの城は、それは美しかったようで、前出のルイス・フロイスは著書「日本史」のなかで「明智の築いた城は、豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ城である」と述べているほどである。実際には坂本城は安土城より4年早く着工されており、近世城郭の先駆者的な存在としても、極めて注目すべき城だったことは間違いない。


*2  信長に宛てた書状のなかで、信玄は自らを「天台座主沙門信玄」と自称している。天台宗で一番偉い人という意味であり、もちろんそんな事実は欠片もない。信玄のかなり盛った話に対し、信長が「だったら俺は第六天魔王だ」と皮肉で返したという、なんとも大人げない意地の張り合いである
*3  安土宗論。当時の法華宗は他宗派に対しかなり攻撃的であり、浄土宗と法華宗の間で争いが起こった際に、安土城下の浄厳院で両者の宗論の仲立ちをした。当事者にとっては一大事には違いないが、公開弁論大会の審判をする信長を想像すると、なんだかほほえましくもある
*4  とはいえ、長島一向一揆などでは目を覆う残虐な仕打ちをしているのも事実だ。いくら戦国の世とはいえ、やりすぎな面も多々ある。本記事も、一方的に信長を擁護するものでは決してありません

 

▲ 坂本城址碑

 光秀はこの城を拠点として叡山の監視や近江の平定に力を尽くし、重臣として陰に日向に信長政権を支え続けた。ところが天正10(1582)年、突如謀反を起こし、京都本能寺に滞在していた信長を襲撃。諸説あるものの、その理由はいまだ、分からない。
 山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、少しでも妻子の待つ坂本に近づこうとしたのだろうか、家老溝尾庄兵衛らわずかな供周りのみで前線基地となっていた勝龍寺城を密かに抜け出し、居城坂本城を目指したが、京都山科近くの小栗栖で落武者狩りに遭い、命を落とすことになる。深手を負い、最期を覚悟した光秀は自刃の際、自らの鎧のひき合いから辞世の句を書き記した一紙を取り出し、溝尾庄兵衛に手渡したという。

順逆無二門(正道に逆らうも従うも同じことである)
大道徹心源(人が進むべき正しい道を、私の心は知っている)
五十五年夢(人生55年の夢から覚めて)
覚来帰一元(死が訪れようとも何の悔いもない)

 信長から重用され、織田軍団のなかでも異例の出世を遂げた明智光秀。地位も名誉もすべて投げうち、謀反へと至った理由は何だったのか。今となっては誰にもわからないが、彼にもまた、おのれが正しいと信じた「目に見えない」価値観があり、それに衝き動かされたのかもしれない。
 光秀が世を去った翌日、秀吉方の堀秀政に囲まれ坂本城は落城。城将により火が放たれ、灰燼に帰した。坂本城は築城からわずか10年で廃城となった、まさに幻の城である。石垣等は近隣の大津城築城に使用されたため、遺構はほとんど残っていない。かつての本丸跡は私有地となっているため、現在は近隣に坂本城址公園として、明智光秀像や歌碑が置かれているのみであるが、近くには、坂本城から移築されたという総門を持つ西教寺や、当時最先端の石垣技術を誇った穴太衆の本拠地、穴太町がある。比叡山延暦寺も含め、往時を偲ぶ旅もまた、楽しかろう。*5

*5  坂本近辺は、歴史好き垂涎のエリアである。宇佐山城や大津城、三井寺(園城寺)など見所も多い

▲ 往時の穴太衆の繁栄を感じさせる、石積みの街並

 その数字の根拠は? エビデンスは? 実績は?
 投資家の皆さんにとっては、常に耳に入ってくる言葉であろうし、実際、投資判断を行ううえでは重視しなければならないものだろう。だが、皆が同じ評価をすることもなければ、同じ結果になることもまた、ない。誰もが異なる目線、尺度を持ち、目に見えない価値を感じて投資するからこそ、株式投資は面白く、奥深いものなのだろう。
 あなたが大事にしている「目に見えない」価値は、果たしてどんなものだろうか?



坂本城跡(坂本城址公園)

住所:滋賀県大津市下阪本(Google Mapで表示されます)
交通:JR湖西線「比叡山坂本駅」下車徒歩20分 または 京阪石山坂本線「松ノ馬場駅」下車徒歩15分