「兜町の大家」が挑む不動産デベロッパーへの飛躍
2021年8月に竣工したオフィスビル「KABUTO ONE」。東京・日本橋兜町の新たなランドマークの完成は、当地の再開発を進める平和不動産が目指す不動産デベロッパーへの道のりにおいても大きな節目となった。「国際金融都市・東京」構想の一翼を担い、世界中から注目を集めている、この「日本橋兜町・茅場町再活性化プロジェクト」を先導するのが、同社代表取締役社長の土本清幸氏だ。コロナ後も見据え、魅力的な街づくりに取り組む土本氏の素顔を追う。
土本 清幸
Kiyoyuki Tsuchimoto
代表取締役社長
代表取締役社長
土本 清幸
Kiyoyuki Tsuchimoto
1959年11月、愛知県生まれ。82年慶應義塾大学を卒業し、東京証券取引所に入所。上場部長、執行役員などを経験の後、2013年、東京証券取引所常務取締役に就任。2016年には同社取締役専務執行役員に。2017年6月に平和不動産に入社し、同社取締役専務執行役員、社長業務代行などを歴任の後、2019年12月同社代表取締役社長社長執行役員に就任。
国内外から注目を集める日本橋兜町の再開発を担う
かつて渋沢栄一が居を構え、“金融の街”“証券の街”として発展を遂げた日本橋兜町が、着々と変貌していることをご存じだろうか。
証券・金融の中枢機能はそのままに、にぎわいを演出するカフェ、バー、ホテルなどの複合施設「K5」が誕生。イギリスのシティガイド『Time Out』による「世界で最もクールなローカルエリア40選」に日本から唯一選出されるなど、兜町には国内外から熱い視線が注がれているのだ。
この再開発を手がけているのが、土本清幸氏率いる平和不動産である。今まさに変革期にある同社のデベロッパーへの挑戦。土本社長は、「勇気を持って」挑んでいる。

「八百屋さんを継ぐ」との思いで名門中学に進学
土本社長は、青果店を営む両親のひとり息子として、愛知県瀬戸市に生まれた。父親はトイレに松下幸之助の『商売心得帖』を置くほど商売熱心で、清幸少年も幼少期から店を手伝った。「ドライブに行く」と聞いて楽しみにしていると、目的地が都市部のスーパーだったこともある。商品陳列の視察が目的だったのだ。
「『店を継げ』と言われた記憶はありませんが、周囲はそのつもりだったはずです。私もそのことは常に頭にあり、小学生の時には八百屋さんの新たなビジネスモデルについて、作文を書いたこともありました」
期待に応え、清幸少年は東海地方を代表する名門・東海中学校を受験し、見事合格を果たした。入学祝いの学習机を購入するため、親子で家具店を訪れた際のエピソードが振るっている。
父親が「この店で一番いい机を」と店員に声をかけると、父親が使うと思った店員は、中学生には不釣り合いな重厚な机を案内した。後で勘違いに気付いた店員は「これは企業の社長向けですから」と別の机を勧めたが、父親は「息子は社長になります」と、最初の重厚な机を贈ってくれたのだった。
「うれしかったですね。子供ながらに、勉強をがんばらなければと思いました」
そしてこの時、期待されることの喜びと、人はそれに応えようとがんばることができることを知った。
大学時代のゼミで鍛え抜かれバックボーンを形成
東海中学・高校を卒業後、土本社長は慶應義塾大学経済学部に進学する。特に3、4年次に在籍した計量地理学のゼミナールは、土本社長に強烈な印象を残したという。
計量地理学は、土地利用や都市のあり方を計量的に分析する学問である。担当は後に森ビルの顧問も務める高橋潤二郎教授で、通常のゼミ以外に毎週読書会が開かれ、レポートの提出を求められた。しかも一定のレベルに達していないと書き直しを命じられ、翌週は2冊分を提出しなければならない。
過酷なレポート作成が続いたある日、土本社長はストレスによる味覚失調を発症したという。「ガツンとやられた濃密な2年間」(土本社長)の経験は、後の土本社長のバックボーンを形成したといえるだろう。


トップのあり方を垣間見た社長秘書時代
大学を卒業した1982年、土本社長は東京証券取引所に入社した。その後2000年代中盤には上場部長を務めるなど、土本社長は要職を歴任するが、それ以前に、経営トップに随行する社長秘書を経験したことが印象に残っているという。
90年代終盤から2000年代初頭にかけて、東証は会員組織から株式会社への移行、売買のコンピュータ化、ETFやREITの上場など大きな転換期にあった。当時の手帳を見ると、記してあるのは社長の予定ばかり。自分の時間はないに等しい毎日だったが、組織のトップが難しい問題をどう判断してどう行動するかを身近で学んだ経験は、間違いなく現在につながっている。
一方で土本社長は、社会人になってからも「いつ家業を継ごうか」と考えながら仕事をしていたとも。
「40代後半で役員になった時、父親に『せっかくだから今の仕事を続ければいいんじゃないか』と言われるまで迷っていました。それまでに辞めるタイミングがあれば、今頃は青果店の店主だったかもしれません」

平和不動産での新たな挑戦
2017年、土本社長は前社長の岩熊博之氏に請われ、平和不動産に入社した。
「岩熊前社長の『社員一丸となって不動産デベロッパーを目指して歩み始めたところなので、ぜひ力を貸してほしい』という言葉を意気に感じ、『そういうことであればぜひ一緒にやらせてほしい』とお返事しました」
平和不動産は証券取引所の建物を保有・賃貸する会社として設立されて以降、全国主要都市で不動産事業を展開していたが、複数の街区をまとめた再開発プロジェクトについては、当時実績を積み上げている段階であった。そのため、同社は不動産デベロッパーへの挑戦を掲げ、再開発事業「日本橋兜町街づくりビジョン」の実現に向け、邁進していた。そのような挑戦に参画するのは、土本社長にとっても大きなチャレンジであった。
「勇気だけは失ったら取り戻せない。逃げることは癖になり、大事な場面で立ち向かえなくなってしまいます。今後、平和不動産の変革を推し進めていくなかでも、さまざまなことに勇気を持ってチャレンジしていきたいと考えています」
予期せぬ社長就任と「健康経営宣言」「働きがい改革」
しかし、入社から2年後、予想外の事態が生じる。岩熊前社長ががんを患い、不動産デベロッパーへの挑戦の道半ばで離脱を余儀なくされることになったのだ。療養中に社長業務代行職を任されていたが、2019年12月には正式に社長就任を打診されるに至る。
「その後、岩熊前社長が急逝されたのですが、社員一丸となって日々取り組んでおり、この挑戦を必ず達成できると確信しています」
土本社長が就任後、街づくりの推進とあわせて進めた取り組みが、「健康経営宣言」と「働きがい改革」だ。平和不動産から二度とがんで亡くなる人を出さないという決意のもと、社員一人ひとりが心身ともに健康で、能力や個性を最大限に発揮できる環境を整える。これが岩熊前社長の遺志を継いだ土本社長の最優先課題であった。
これら2つの取り組みは、その後「健康経営宣言」として食生活改善セミナーなどの健康増進のための取り組み、がん検診費用の負担、残業を事前承認制にする過重労働時間削減施策等の導入などにつながり、「働きがい改革」では、資格取得の支援制度や、体系的な研修、育成プログラムの整備などの施策として具体化している。
不動産デベロッパーへの第2ステージが始まる
「10年をかけて兜町を変えていく」再開発事業の実績を積み上げながら、平和不動産を真の意味での不動産デベロッパーに変革すること。それが自分の使命だと土本社長は語る。
平和不動産の街づくりは、①街の特性にエッジをかける、②自然とスマイルが出るような遊びの要素を取り入れる、を組み合わせて生まれる。
日本橋兜町の再開発なら、①は「KABUTO ONE」に顕著に表れている。この施設には、金融・証券関連企業が入居するだけでなく、ビジネスパーソンの交流空間が備えられ、新たなビジネスが生まれる予感に満ちている。コロナ禍によるリモートワークの普及で新たなオフィス像が模索されるなか、平和不動産は人が集まるからこそ生まれる価値を改めて提案していく考えだ。②では、築97年のビルをリノベーションして誕生し、高評価を得ている飲食・宿泊の複合施設「K5」が象徴だ。
生家のトイレに父が置いていた松下幸之助の『商売心得帖』は、当時の清幸少年も実はたびたび手にとっていた。「店先をきれいにすることは自分の店のためだけではない。隣の店も競ってきれいにするようになり、やがて地域全体の品位につながる」という趣旨の一節を思い返し、平和不動産が手がける再開発も、そうありたいと考えるという。
「KABUTO ONE」の開業を迎え、さらに今後進められる札幌でのプロジェクトを含め、平和不動産の再開発事業は、どのような姿で私たちの前に現れるだろうか。土本社長が「勇気」を胸に挑む新たな街づくりに期待は高まる。
Episode
「季節の移ろい」を読書とテニスで
土本社長は、かつての職場の先輩のアドバイスである「どんなに忙しくても季節の移ろいを感じる心の余裕を持つ」ことを心がける。中国古典の碩学が、旬の食べ物や伝統行事について綴った随筆集『一陽来復』(井波律子著)は、そんな土本社長の愛読書だ。休日にはご近所さんのグループで市民公園のテニスコートに集まり、1日4時間はボールを追う。社長の肩書きを気にせずに接してくれる仲間とのプレーが心地いいとのこと。季節を感じながら汗を流すこの習慣は、40代から続いているという。
平和不動産[8803]
証券・金融業の施設運営で日本指折りの実績とノウハウ
第二次世界大戦中の証券取引業務を統括した日本証券取引所が、戦後に会員組織の証券取引所として再出発するのを機に、施設のオーナー企業として1947年に設立された。取引所だけでなく所在地を中心としたビル賃貸事業を展開し、「兜町の大家」と呼ばれた。80年代以降は事業の多角化で郊外型住宅地、商業ビルの開発などにも進出したほか、2009年には現在の平和不動産アセットマネジメントを連結子会社化してREIT事業に参画。2020年度策定の中期経営計画「Challenge & Progress」により、不動産デベロッパーとしての挑戦と飛躍を掲げている。
【特別企画】「『街づくりに貢献する会社』としてさらなる企業価値の向上に取り組む」に続く