「面」から「空間」へ─
事業モデルの進化に邁進
住江織物は1883年に創業した、わが国屈指の名門企業だ。インテリア事業と自動車・車両内装事業を中核として、住空間、商業空間、そして自動車や鉄道などの移動空間に「快適」を提供してきた。さらに今「面」から「空間」へと事業領域を拡大し、新たな成長ステージを切り拓きつつある。この伝統ある企業グループを率いるのが、2021年8月に代表取締役社長に就任した永田鉄平氏─。住江織物と同じ大阪で生まれ育った永田社長はこれまでの人生でどのような軌跡を残してきたのか。その素顔を追った。
永田 鉄平
Teppei Nagata
代表取締役社長
代表取締役社長
永田 鉄平
Teppei Nagata
1957年3月大阪府生まれ。
80年に関西学院大学経済学部を卒業し、住江織物に入社。
インテリア部門や特販部(現・機能資材事業部門)を経験した後、2012年に執行役員機能資材事業部門長に就任。
経営企画室部長、CSR推進室部長、インテリア事業部門長(現任)などを経て、2021年に代表取締役社長に就任。
座右の銘は「至誠通天」。
洗練されたスタイル、さりげないユーモア
大阪生まれのビジネスパーソンというと、バイタリティとウィットに富み、行動力ある人物を想像する人が多いかもしれない。
しかし、住江織物の永田鉄平社長にそうした大阪人の類型的なイメージは似合わない。印象はどこまでもスマート。語り口はソフトで、時折さりげないユーモアがこぼれ出る。
それは出身校である関西学院大学の洗練された校風によるものなのか、豊富な海外経験によるものか、あるいは住江織物の「老舗」の香りを身にまとっているからか。困難に立ち向かい、新たな世界を切り拓いてきた自信とプライドが、悠揚迫らぬ風格となって表れているのかもしれない。

早生まれの落ちこぼれからオール5の優等生に
永田社長が大阪市で誕生したのは1957年3月。日本が本格的な高度成長に突入する黎明期である。
生誕当時、両親と1歳上の兄、そして父方の祖母の5人家族だった永田社長は、明治生まれの祖母から厳しい教育を受けた。特に行儀作法の教えは徹底していたという。
一方、両親は放任主義で一度も勉強しなさいと言われたことはない。3月の早生まれのうえ、のびのび育ったこともあって、小学校低学年の頃、特に1年生の時は授業についていくのも四苦八苦だったようだ。
「あまりにも成績が悪かったので、親戚のおばちゃんたちに、なぜ鉄平ちゃんはこんなに勉強ができないのかと説教されたことがあります。 その時、子供ながらも反発して、それから熱心に勉強するようになった。1年生の時の成績表にはずらりと1や2が並んでいましたが、6年生になるとほとんどが5になりました」
勉強以外にがんばったのは器械体操である。64年の東京オリンピックを見て体操に興味を持ち、兄が体操部だったこともあって中学校に入ったら体操をやろうと決めていた。
ところが、入学した年に男子体操部は廃部になってしまう。請われて女子体操部のコーチを務めていたが、ある時、鉄棒で車輪をやっていた際に手をすべらせて落下し怪我を負ってしまう。それからはバレーボールに方向転換、体操選手になりたいという夢は潰えることになった。
バレーボールと並行して合唱部にも所属していたというから、文武両道を絵に描いたような優秀な生徒だったことは間違いない。

適正規模のトップ企業として地元大阪の住江織物を志望
府立清水谷高校に進学した永田社長は、硬式テニスとバンド活動に熱中。1年浪人した後、関西学院大学経済学部に合格。関学経済は西日本の経済界に強固な基盤を有する名門で当時、関西私学の最難関の一角でもあった。また六甲山麓に広がる美しいキャンパスにも憧れていたという。
大学で産業組織論を学んだ永田社長は、就職活動にあたって、社員一人ひとりが組織の歯車にならない適正な規模を持ち、かつ業界ナンバーワンの優良企業を探していた。
「大学就職部の掲示板で出合ったのが住江織物です。一部上場企業で売上高は300億円くらい。経常利益率も5%という妥当な水準を確保していて、しかもカーペット業界ではダントツのナンバーワン企業。本社は大阪の心斎橋で、地元企業でもありました。自分の希望した条件をすべて満たしていたので、この会社に入ろうと決めました」
実際、入社してからも折に触れ、業界トップ企業の恩恵と責任を強く感じたという。
住江織物は1883年の創業だから、永田社長が入社した1980年時点ですでに100年近い歴史を刻んでいた。伝統あるトップ企業だけに、業界や顧客からの信用には絶対的なものがあったが、同時に市場をリードする存在として他社とは比較できないほどの責任と使命が課せられる。その自負と矜恃が永田社長の心に深く刻まれたことは間違いない。

流通システムの変革期──大規模プロジェクトに注力
80年頃は問屋がメーカーと小売店の中間に位置し流通の要を担う存在であった。
時の経過とともに流通過程はメーカーと小売店に二極分化し、住江織物も在庫管理から加工まで幅広い機能を果たすようになる。永田社長はこうした変革を同時代人として経験した。そして歴史的な大規模プロジェクトに全力を傾注していく。
「インテリア事業部門に籍を置いていた時、日建設計という日本で一番大きい設計事務所の担当になりました。日本銀行や大阪市庁舎、大阪城ホールのような大規模プロジェクトに参画したことは、私にとって将来の糧となる貴重な経験でした。大阪城ホールはドーム式の多目的アリーナです。円形のフロアにどうやって50㎝角のタイルカーペットを敷き詰めていくか、試行錯誤したことを今も懐かしく思い出します」
インテリア事業部門に5年間、籍を置いたあと、現在の機能資材事業部門に異動し、そこで約30年間を過ごすことになる。機能資材事業部門は重点事業と位置付けられていたものの、当時の売り上げ規模は小さく、永田社長も思う存分腕を振るい、部門の成長を牽引することとなった。異業種に対して住江織物の技術・製品の機能と品質を訴求し、ビジネスにつなげていく仕事は刺激があっておもしろかったと永田社長は述懐する。
「ある時、先輩から言われた一言が、その後の会社人生を支える貴重な指針となっています。それは、売る側と買う側は基本フィフティ・フィフティだということです。現実的には製造販売する側が50%弱、購入する側が50%強だろうけれど、決して2対8とか3対7の関係ではないと。高い品質の製品を開発・提供することと、それを評価し採用することは同等の重みを持つのだと先輩の言葉から学びました。自信と誠意を持って相手に対することで、お客さまと良好な関係が構築できます。それは仕入れ先に対する姿勢としても同様です」
海外出張で世界を飛び回りながら、商談相手と親密な人間関係を構築し、時間をかけて自社製品のよさを伝えてきた。海外の友人・知人との絆も永田社長のかけがえのない財産だ。


プライムへの上場を視野に収益力の一層の強化を追求する
その後、永田社長は会社員生活のステップを一段ずつ確実に上っていく。中枢組織の長を歴任し、2021年8月、満を持して住江織物の代表取締役社長に就任した。
吉川一三前会長兼社長(現・取締役会長)は1946年生まれだから、経営トップは一気に10歳以上若返ったことになる。上席執行役員と取締役を歴任していたので、社長就任への打診は意外なものではなかったようだ。
「社長就任の打診を受けた頃、東証では市場再編の検討が大詰めを迎えていました。当社はもちろんプライム市場への上場を望んでいましたが、そのためにはもっとよい会社にならないといけません。営業利益率の低下傾向に歯止めをかけ、恒常的に5%以上を維持できる事業体制を構築すること、そして中期的に売上高1,000億円を目指していくこと、それを当面の目標に掲げました。また古巣の機能資材事業部門については、多分野に適応可能な技術資産を多数蓄積していますので、売り上げ100億円をひとつの到達点として業容を拡大していきたいと考えています」
永田社長の社長就任は、機能資材を基幹事業に育て上げる役割も期待されてのことであったと推察される。

持続可能な社会への貢献を目指して
永田社長は、ものづくり企業の醍醐味は「あとに残るものを自分たちの力で生み出せること」だと言う。取材中、事前に準備いただいた多数の商品サンプルを熱心に説明する姿からも、自社製品への自信と愛情が伝わってきた。
機能資材事業部門で永田社長が最後に手がけた仕事は、消臭機能を持った商材の開発と拡販であった。長い年月をかけて培ってきた技術を応用して、産業や暮らしの課題解決に貢献していく、そのプロセスに大きなやり甲斐を感じている。社員の力を結集して新たなものづくりに挑戦していきたいと永田社長は今後への抱負を語る。
「住江織物は日本で最初に絨毯を世に送り出しました。業界の先駆者としてのプライドがありますし、同時に責務も痛感しています。お客さまや取引先を騙して自分がトクをするような行為は許されません。今後も誠実な経営と事業を通じて、日本経済の発展と持続可能な社会の確立に貢献していきたいと決意しています」
社長就任から4カ月、永田社長の挑戦はまだ始まったばかりだ。
<Episode>
自宅にカウンターバーを設置
住江織物グループのリーダーとして多忙な日々をおくる永田社長。心身の疲れを癒やしてくれるのが、自宅に設えたカウンターバーだ。棚には日本と世界のお酒がずらりと並ぶ。食後のひと時、奥さまとこのカウンターで過ごす時間が明日への英気を養ってくれる。今は結婚し別に自宅を構えているご息女とも、この席で何度もお酒を楽しんだ。ここでリフレッシュしたあと、永田社長はまたビジネスの最前線へと飛び出していく。

会社概要|住江織物[3501]
空間ビジネスの創造に挑む、創業138年のトップ企業
質の高い緞通づくりを目指して村田伝七が大阪で創業。帝国議会議事堂など明治の名だたる建物にカーペットを納入し、近代国家日本のイメージ向上に貢献する。1931年には自動車向けビジネスに参入。第二次世界大戦後は、高品質な製品の安定供給を通じて産業の発展と人々の豊かな生活の実現に寄与。インテリアから自動車・交通機関向け内外装材、機能性資材まで幅広いビジネスを展開し、現在は空間ビジネスの創造に注力している。また、地球環境に配慮した製品の開発や流通システムの構築にも強みがあり、高く評価されている。世界7カ国・地域に14の拠点を擁するグローバル企業でもある。2021年5月期の連結売上高は797億円。グループ社員数は2,724人(2021年5月末現在)。
【特別企画】「内装のプロが結集し 次世代空間づくりに挑む」に続く