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「疆界(きょうかい)の城」

名城は語る 「疆界(きょうかい)の城」

2022年4月15日
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アイアールmagazineの連載企画「名城は語る」。
日本各地の城を独自の目線で解説している大人気コラムです。
2022年春号からは、WEB限定でお届けします!
引き続きお楽しみください。

「疆界(きょうかい)の城」
――越前府中城[福井県越前市府中]

 

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が好評を博している。義経でも清盛でも政子でもなく、北条義時に焦点をあてたことや、時にコメディタッチであるという印象をお持ちの方もあろうが、丹念に史料をあたり、史実のエピソードを巧みに取り入れることで、事の本質を描き出すことでは右に出る者のない三谷幸喜氏を起用したことは、けだし慧眼であろう。     

 歴史物の映画やドラマに触れるとき、気をつけたいことがある。それは、当時の人々の物の見方、当時の常識に思いを致すことである。

 例えば前述の鎌倉殿であるが、信長、秀吉、家康らが活躍する戦国物を見慣れた方からすると、あらゆる事象が原始的に描かれているように感じられなかっただろうか? 「幼くして亡くした我が子の霊を鎮めるために一旦赦免した伊藤祐親を殺害する」とか、「祈祷を以て平清盛を呪う」というような、政治決断のなかに宗教的な思考が当たり前のように入り込んでいたことにお気づきだろう。また、戦場のシーンでも、感覚的・原始的な行動原理がそこかしこに垣間見える。決して手を抜いているわけではない。鎌倉時代には、後世の戦国期に見られる巧みな調略や、高度な軍略・戦術がまだ確立していないことを踏まえて描写されているのだ。

 我々は歴史の結果を知っている。確かに、流人だった源頼朝は鎌倉に武家政権を樹立したし、最下層の出身だった豊臣秀吉は天下を取った。だが、それがどれほどの偉業であり、常識外れな出来事だったのか、現代の感覚からはきっと、わからない。おそらく当時その場に居合わせた殆どの人間は、彼らが天下を制するなどと、露ほども思っていなかったのではなかろうか。

 また、当時の武将の決断というのは、文字通り「命懸け」であったことも忘れてはならない。現代の経営者であれば、例え事業に失敗したとしても再起は充分に可能であるし、家族も別の仕事についたりすることができる。ただ、戦国の世では、失敗イコール死に直結するし、一族全てが滅亡の憂き目にあうことも珍しくない。様々な苦悩、逡巡を経て選択したであろう彼らの決断は、結果はどうあれ敬意を払うべきことなのだろう。

 前置きが長くなった。今号からオンラインでの配信となり、文字数制限がなくなったため、つい筆が滑ってしまったことをお許しいただきたい。

 今回取り上げたいのは、越前(福井県)の要衝、越前府中城である。築城年代ははっきりしないものの、その歴史は古く、応仁の乱後の文明年間(1400年代後半)、守護代朝倉氏の府中奉行所が置かれたことが起源とも推定されている。天正年間に入ると、織田信長が勢力を拡大。信長は、全国各地の強敵を攻略するための5つの軍団を組織し、家臣団のなかで最も信頼する5人の大将を軍団長に任じた。中国の毛利氏に対しては羽柴秀吉、関東の北条氏には滝川一益、四国の長曾我部氏には丹羽長秀(名目上の大将は織田信孝)、畿内には明智光秀、そして北陸の上杉氏には柴田勝家を当たらせた。勝家は北ノ庄(福井市)に巨大城郭を築き本拠としたが、その際に与力*1として配下に組み入れられ、10万石を領し、府中城を守備したのが前田利家である。

 柴田勝家と羽柴秀吉の不仲というのはよく知られた話だ。現代でも、先代社長からの重役と、若社長に重用された新参者というのは、とかく対立しがちなもの。信長の父、信秀の代から仕え、長らく織田家の筆頭大将を自任してきた勝家と、最下層の出ながら、従来の武士にはない発想と実行力で、信長の信頼を勝ち得ていった秀吉の間には、理性だけでは割り切れない、感情的な対立があったとしても不思議ではないだろう。

 この両者と親交があったのが利家だ。秀吉が藤吉郎と呼ばれていた小者時代からの親友で、利家は秀吉・おね夫妻の婚儀の媒酌人も務めるほど、家族ぐるみの付き合いだった。後に秀吉はメキメキ頭角を現し、利家の立場を大きく飛び越えて軍団長にまで上り詰める。出世レースでは大きく水を開けられる形となったものの、二人の友情が変わることはなかった。

 片や勝家は、利家にとっては烏帽子親であり、尊敬すべき大先輩とも言うべき存在だった。北陸方面軍にあっては上司と部下として、「又左*2」「親父様」と呼び合うほど強固な信頼関係で結ばれていたという。



*1  織田軍団においては、各軍団長に貸し与えられる形で武将を出向させており、これを与力(寄騎)の制という

*2 又左衛門。利家の通称
▲ 小丸山城址公園(七尾市)に立つ前田利家と正室まつの像

 天正10(1582)年6月2日、この関係にヒビが入る大事件が起こった。本能寺の変である。

 事件当時、秀吉は備中高松城(岡山県)を挟んで毛利の大軍と、勝家は魚津城(富山県)で上杉景勝軍の大軍とそれぞれ対峙しており、畿内に戻って来られる状況ではなかった。逆に言えば、だからこそ、明智光秀は間隙を突いて信長に反逆したとも言える。しかし、その後の両者の動きは明と暗に分かたれる。秀吉は、変報を知るや否や、即座に毛利氏と和睦。後に「中国大返し」と云われる電光石火の行軍で畿内に取って返し、瞬く間に光秀を打ち破ってしまう(山崎の戦い)。一方の勝家は、秀吉とほぼ同じ時期に変報を受け取りながら、情報収集の遅れや上杉氏の妨害もあり、漸く近江まで出てきた時には全てが終わった後だった。

 これを機に、秀吉と勝家の立場は完全に逆転。対立は不可避となっていく。この時点ですでに自らの天下を意識していたのであろう。これ以降の秀吉が次々に繰り出す策略*3に、勝家は次第に追い詰められていく。そして天正11(1583)年3月、遂に両者は北近江の余呉湖を望む賤ケ岳で激突する*4



*3 この時期の秀吉はとにかく神がかっており、その戦略眼の確かさは凄みさえ感じさせる

*4 賤ケ岳の戦いは、戦略、行軍、戦闘、兵站、調略、要塞構築に至るまで、すべてが高度に計算された、秀吉の最高傑作とも言える合戦である。本稿では詳細は割愛するが、読者の皆さんも機会があれば是非調べてみていただきたい
▲ 賤ケ岳からみた琵琶湖。この絶景を秀吉や利家も見たのだろう

 どちらに味方するべきか。親友と敬愛する上司という狭間で迫られた究極の選択に、利家は苦悩したに違いない。悩みぬいた結果、利家は、柴田軍の一翼として出陣。秀吉は木之本、勝家は柳ケ瀬に着陣するも、両者ともさすがに歴戦の勇者である。先に動いた方が負けとばかり、しばらく睨みあう形となって、戦線は膠着する。この間、岐阜で兵を挙げた織田信孝に対応するために、戦線を離れた秀吉本軍の隙を突き、柴田方の佐久間盛政が、秀吉方の最前線でもあった大岩山を奪取。しかし、これこそ秀吉が巧妙に仕掛けた罠に他ならなかった。知らせを聞いた秀吉は、即座に岐阜攻めを中断し、木之本へと取って返す。50km強の長距離をわずか5時間で走破した*5秀吉軍はその余勢を駆り、佐久間盛政に痛撃を浴びせる。

 岐阜にいる秀吉が戻るまでには何日もかかると踏んでいた柴田軍は大混乱に陥った。それだけではない。何を思ったか、先行した佐久間盛政の後詰として備えていたはずの前田利家が、戦うことなく、突如として戦線を離脱してしまったのだ。劣勢のなか、突然の味方の離脱に狼狽えた柴田軍は戦意を喪失。七本槍の活躍をはじめとする秀吉軍の猛攻の前に壊滅してしまう。

 戦線を離脱した利家はどうしたのか。

 静かに居城である越前府中城に兵を戻した利家だったが、時をおかずして、彼の元に、ある二人の男が訪れる。

 ひとりは、上司であり、何くれなく目をかけてくれた恩人でもある、柴田勝家。戦いに敗れ、本拠地である北ノ庄に退却する途中、利家の元まで辿り着いた勝家は、湯漬けと替え馬を所望したという。裏切りと取られても仕方ない利家の行動だったが、勝家がそれを責めることはなかった。

 「又左、見事に負けてしもうたわ」*6
 
 「親父様、わしは、わしは……」

 斬られても仕方ない、と、利家は覚悟した。

 だが、勝家は笑って許しただけでなく、利家のこれまでの労をねぎらい、秀吉に降ることを勧めた。

 「わしの力が及ばなんだ。又左には、いらぬ苦労を背負わせてしもうたな。お主と筑前(秀吉)とは友垣じゃ。筑前の元へ行け。決して粗略に扱うようなことはせぬだろう」

 台詞回しは若干想像も入っているが、このようなやり取りがあったと『加賀金澤前田家譜』は伝えている。その後勝家は、人質として預かっていた利家の三女、摩阿姫をも、送り返してきたという。自らのことよりも、自分と秀吉との間で板挟みとなっていた利家の苦悩を気遣った勝家の男気、敗れてなお信義を貫いた姿は、胸に迫るものがある。

 もうひとりの訪問者は、羽柴秀吉だった。
 
 勝家が去ってほどなく、柴田軍追撃のために越前府中に至った秀吉は、単身、利家の元を訪れた。親友とはいえ、秀吉は今しがたまで敵対していた軍の総大将である。悪心を起こす兵でもいようものなら、ひとたまりもない。

 「又左! わしじゃ。筑前じゃ」

 だが秀吉は豪胆にも、身ひとつで府中城に乗り込み、利家との面会を求めた。
 
 「これは……。筑前守様、此度のこと、何卒……」

 「何を他人行儀な。わしとそなたの仲で堅苦しい物言いは無用じゃ。まつ殿は息災か」

 そして、勝家と同じく湯漬けを所望し、戦場を離脱し中立を保ってくれたことへの感謝を述べるとともに、自身の陣営に加わるよう、説得したと云われる。本当にあったことかは定かではないし、後世の創作の匂いも強いが、もしあったとすれば、「人たらし」たる秀吉の面目躍如というところだろう。
 
4月24日寅の刻、その後秀吉軍に包囲された勝家は、北ノ庄城天守に火をかけ、燃えさかる炎につつまれながら、妻のお市の方とともに自刃。その生涯を終える。



5 中国大返しならぬ「美濃大返し」。拙速は巧遅に勝る―何よりもスピードを重んじた信長の意図を最も理解していたのもまた、秀吉だったのかもしれない

6 勝家・秀吉の台詞はわかりやすくお伝えするために脚色したものである。文献に記載された逸話ではあるものの、通説では堀秀政を通じて秀吉に降ったとされており、これ自体が美化された後世の創作の可能性もあるが、真偽はわからない。ドラマならば外せない名シーンとなるのだろう
▲ 北ノ庄城址に立つお市と浅井三姉妹、柴田勝家の像

 結果から見れば、利家の決断は正しかったのだろう。彼はその後、忠実な盟友として秀吉の覇業を支え、豊臣政権の重鎮として加賀百万石の礎をつくることとなる。勝家を裏切って勝ち馬に乗った形となったことへの賛否はあるだろう。が、信義と友情の間で葛藤した利家の苦悩と決断を、誰が責めることができようか。

 事業のトランジション(転換)、社会への貢献と利益追求、自らの信念と組織の現状など、対立する諸問題の狭間で行われる決断。これを迫られる経営者もまた、やはり孤独を抱えているのだろうか。時代はかつてない変化のスピードを見せている。不均衡ながらかろうじてバランスを取っているように見えた世界は、またもや力による現状変更を是とするような前時代的な存在の台頭を、押さえ切れていない。先の見えない世界だ。立場は違えど、経営者も、投資家も、これまで以上にトライアル&エラーへの耐性が求められてくる。結果の良し悪しだけではない。様々な問題の疆界(きょうかい)で迷い、果敢に挑戦し続けたものが、最後に評価される世となることを期待したいものである。

 JR北陸本線「武生駅」から歩いてすぐ、現在の越前市役所一帯が、かつて越前府中城が存在した場所である。明治維新以降、四方に巡らされていた堀は埋め立てられ、その後学校、役所へと姿を変え、現在は城址の碑が建つのみとなっている。見るべきものは、これと言って何もない*7。だが、だからこそ、ここで苦悩したり、血のにじむ思いで決断した者たちの思いが、より心を打つ気がするのは気のせいだろうか。

 見えているものだけが、物事の全てでは、決してない。 (終)



7 府中城址自体に遺構はないものの、北近江から越前にかけては戦国の史跡の宝庫である。玄蕃尾城、金ヶ崎城、一乗谷館など、少し足を延ばせば様々な戦国武将の栄枯盛衰を満喫できる歴史好き垂涎のエリアだ


 

越前府中城跡

住所:福井県越前市府中(Google Mapで表示されます)
交通:JR北陸本線「武生駅」から徒歩3分 / 北陸自動車道「武生IC」から車で約10分
参考:越前市ホームページ



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