アイアールマガジン

IR MAGAZINE
先駆者たちの大地

イノベーションによる社会貢献を原点に変わり続ける

明治期に創業した多くの企業がそうであるように、日立製作所も、始まりは小さな作業小屋であった。1910(明治43)年の創業から110年もの歴史を生き抜き、発展を続けてこられたのは、創業者・小平浪平(おだいらなみへい)が掲げた日立創業の精神「和・誠・開拓者精神」が従業員一人ひとりの心に刻まれ、たゆまず実践されてきたからであろう。日立製作所の110年は、社会の変革を先導し、立ち向かってきた歴史である。

日本の工業の振興こそが
自らの任務である

 日立製作所(以下、日立)創業者の小平浪平が、東京帝国大学工科大学電気工学科に入学した1896(明治29)年は、日本の産業革命期の真っただ中にあった。1891(明治24)年に京都で琵琶湖疎水を用いた初の水力発電が行われ、1895(明治28)年には、その電気を利用した日本初の電気鉄道が京都市街を走った。こうした電気の時代の到来を小平は敏感に察知し、国益のため、電気工学に進むことを決意した。しかし、当時の日本では、主要な電気機械は全て外国製であった。日本の工業の未熟さを目の当たりにした小平は、日本の発展のため工業を振興させること、つまりは自主技術を開発・発展させていくことが自らの任務であると心に誓った。

 

外国の技術に頼らず
日本人の手で自主技術を

  1900(明治33)年、大学を卒業した小平は、干拓事業や鉱山事業を広く手がける藤田組(現・DOWAホールディングス)に入社し、秋田県にあった小坂鉱山に赴任する。入社後すぐに発電所建設を命じられた小平は、発電所や水路、変電所などをほとんど一人で設計し、自ら工事を指揮。1902(明治35)年には止滝発電所を完成させた。大学を出たばかりの新人が、これほどの仕事をやってのけたことは驚異と言われた。しかし翌年、小平は藤田組を辞した。東京電燈(現・東京電力ホールディングス)が山梨県に日本最大となる駒橋発電所の建設を計画していることを知り、日本の一大プロジェクトへの貢献に想いを募らせたからだ。小平は、まず1年契約で広島水力電気(現・中国電力)に就職し経験を積んだ後、1905(明治38)年、東京電燈に入社する。送電主任としてプロジェクトに携わることとなったが、念願かなったのもつかの間、その発電所設備のほとんどが外国製品で、その据え付けも外国人技師の指導の下で行わねばならないことに愕然とする。

  「このようなことで、わが国の工業は本当にやっていけるのだろうか」
 小平は暗たんたる思いに駆られた。

小さな作業小屋から始まった
「日立製作所」の軌跡

 日本最大の発電所建設で、改めて日本の工業の未熟さを目の当たりにした小平の前に、藤田組の共同経営者の一人であった久原房之助が現れ、「再び君の力を借りたい」と伝えた。久原は、茨城県にあった廃鉱同然の赤沢銅山を買い取り、新たに鉱山事業を開始することを決意していた。

 1906(明治39)年10月、小平は久原鉱業所の日立鉱山(現・茨城県日立市)に赴任する。当時の日立村は寂しい寒村で、さらに山深く分け入った本山にある日立鉱山はまさに僻遠の地であった。工作課長として入社した小平は、水力発電所の建設の任を受ける。鉱山が発展し、建設も急を要するさなか、小平は、当時の国産最大級を超える1000馬力水車や変圧器を自作し、仮の発電所を作ることで、今も健在する石岡発電所を完成させた。これに自信を得た小平は、電気機械製造事業を始める意思を固めた。そして1910(明治43)年11月、久原の許可を得て、日立村の宮田芝内という地に建てた木造の小さな工場で、電気機械の製造を始めた。
「日立製作所」の創業だ。

 

努力の積み重ねで築き上げた
実績と事業の拡大

 1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦によって、輸入品が途絶える一方、電灯の普及、石炭の需要増大など、日本の産業拡大が後押しとなり、日立への注文は徐々に増えることとなる。創業当初こそ、故障や事故の連続であったが、品質向上に全力をあげ、新技術や新製品の研究に地道に取り組んだ。また、優秀な人財の確保と従業員教育や営業体制の整備にも力を尽くした。こうした努力の積み重ねによって日立は、日本の産業とともに順調に発展していった。自主技術による電気機械の製造によって、日本の産業の発展、工業の振興へ貢献するという想いを形にしていったのである。

優れた自主技術・製品開発を通じて
社会に貢献する

 日立は電力事業のみならず、建設に必要な機器の製造を通じ、社会インフラへと事業分野を拡大させてきた。モーター、空気圧縮機などの産業機器事業をはじめ、1910年代に鉱山用の電気機関車、1920年代に蒸気機関車の製造を開始。1930年代にはエレベーターの製造や、自動車部品の開発、建設機械の提供を始めるなど、まさに、日本の産業発展を支えるための事業を拡大させてきた。しかし、その道のりは平坦ではなく、事業が軌道に乗りつつあった1919(大正8)年に発生した変圧器工場からの大火災では、設備や仕掛品が多く失われた。1920年代には、日本経済に深刻な不況が発生し、日立への注文も激減してしまう。1930年代後半からは、第二次世界大戦による戦況が厳しさを増し、日立の工場も空襲などの影響を受けるなど苦境が続いた。

 苦境の中でも、小平が大事にしてきたものは「優れた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」という、現在も変わらない日立の企業理念である。日本社会が揺れ動く中、日立は新たな技術・製品の開発を続け、発生する困難にも立ち向かい、常に社会に貢献していくことを念頭に事業を行ってきた。象徴的な取り組みは、1923(大正12)年の関東大震災からの復興支援であろう。日本の工業の中心地である京浜工業地帯が壊滅的な打撃を被ったことから、茨城にある日立には、代替品を求める全国からの注文が殺到した。しかし小平は、目先の利益ではなく日本経済全体のことを考え、日立の生産能力の全てを、京浜地方のインフラ復興支援に充てたのである。

 

戦後の復興と日立の再興

 1945(昭和20)年、第二次世界大戦の終結時、日立は、戦災によって生産能力の40%を失っていた。加えて、1947(昭和22)年、GHQによる公職追放で、社長の小平以下多くの役員が日立を去ることとなり、まさにゼロからの再スタートを切ることとなった。二代目の社長のもと、日立は、戦後の混乱期の中、これまでの実績を活かして大容量水車や大型発電機を開発、1950年代には、日本の電力不足が問題となる中、欧米に後れをとっていた火力発電の開発に乗り出した。鉄道車両や昇降機の製造も再開した日立は、社会インフラの提供を通じて、日本の戦後復興と近代化を支えていった。

日本を代表する
総合電機メーカーに

 1950年代に入り、経済復興を遂げた日本では、徐々に人々の生活にゆとりが生まれ、社会は変化していった。より人々が暮らしやすい社会づくりに貢献したい。社会が変化する時こそ、日立の企業理念は重要な役割を果たした。日立が新たに注力したのは、急速に需要の高まった家電製品の量産化、そして、将来の日本の発展を支えることになるコンピュータ開発であった。

 日立は、社会インフラを支える企業として、新たな技術の開発を通じ、より良い社会の実現を、常に探求した。例えば、電力を届けるために必要な送電線のたるみを計算で把握できるようになれば、より安定した電力供給を実現できるのではないか。さらなる社会インフラの発展をめざし、コンピュータの開発を始めた。

 鉄道の乗車率も高まる中、1959(昭和34)年には、オンラインの座席予約システムを日本で初めて開発した。それまでの、人の手で台帳に記入するという予約方法は、乗客の待ち時間はもちろん、鉄道事業者への負担も大きかった。このシステムの開発により、その10年後には、全国どこの窓口においても日本各地を走るすべての列車の座席予約を取ることができるようになったのだから、画期的な技術であったといえるだろう。

 日立は、1958(昭和33)年開催のブリュッセル万国博覧会における、電子顕微鏡のグランプリ受賞を皮切りに、東京オリンピック(1964年/昭和39年)に向けた、東海道新幹線と東京モノレール用の車両の試作開発への参画など、名実共に、日本を代表する総合電機メーカーとしての地位を固めていった。

グローバル化・多様化の始まり

 1970年代は、ドルショックや完全変動相場制への移行、石油危機などにより、日本の産業界全体が大きな構造変革を余儀なくされた。急速な高度経済成長に伴い、人々のニーズが多様化していった時代ともいえる。こうした変化の中でも、日立は「攻めの経営」を貫いた。電力、鉄道などといった重電が主体だった事業構造を、総合エレクトロニクスへと大きく転換させた。コンピュータの普及に伴い、半導体部門も大きく成長していった。また、マーケットを拡大させていくため、海外ビジネスにも注力していった。

 日本の製品は、高効率・省エネルギー・高信頼であるとして注目を集め、輸出も急増、1980(昭和55)年には、日立は世界の電機メーカーランキング5位(米国「フォーチュン」誌)となり、グローバル製造企業として名を連ねることになった。

 

顧客起点で価値を創造する
社会イノベーション事業

 2000年代に入ると、インターネットや携帯電話が生活を支える新たなインフラとして確固たる地位を占めるようになり、インターネットを通じてさまざまな情報を得ることで、人々の欲求が大きく変化した。良いものを作って提供しても、それだけでは顧客は満足しない。顧客の求める価値が何かを見極め、いかに対応するかが、企業にとっての経営課題となるようになった。

 日立が今、自らの強みを最大限発揮し、顧客に価値を提供し続けているのが「社会イノベーション事業」である。あらゆるモノや機械にセンサーを付けて、そこから得られるデータを活用できるIoT(Internet of Things:モノのインターネット)の時代になり、遠く離れた場所の機械の状況を監視・制御できるようになった。日立は、この社会イノベーション事業で存在感を発揮している。デジタル技術を活用し、社会が生み出す膨大かつ複雑なデータの分析・ソリューションを提供することで、課題解決に貢献しているのだ。

 日立は、創業に原点を持つ電気機械の技術、50年近く携わってきたコンピュータや制御、さらに家電製品から社会インフラまで多岐にわたる事業経験・ノウハウを活かしながら、顧客と一緒に課題を発見し、新しい価値の創出を進めている。

常に原点に立ち返り
より良い未来を追求

 日立は時代を追うごとに事業構造を進化させ、人々の暮らしを支える社会インフラを提供するとともに、最先端分野で世界をリードするイノベーションを起こしてきた。創業から110年の間、常にスピード感をもって変化し続けてこられたのは、「優れた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」という企業理念と、「和・誠・開拓者精神」という小平浪平の創業の精神が、不変のものとして日立に流れているからだろう。



──── 日立製作所の現在 ────────────────────

存続の危機を乗り越え
世界の社会課題の解決をリードする企業に

 リーマンショックが直撃した2009年3月期、日立は7,873億円の連結最終赤字を計上。国内の製造業としては過去最大の損失で、存続の危機にさらされた。これを機に日立は、日本の経済成長とともに多角化を続けてきた事業ポートフォリオを見直す、大胆な経営改革を断行した。好不況に左右されにくい電力や鉄道などの社会インフラ事業に経営資源を集中し、赤字の原因となった半導体事業やテレビ事業を縮小するなど、急速に「選択と集中」を進めたのである。

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 日立は大きく変わった。〈家電や重電などの機器を提供する企業〉から、〈ITと制御技術を組み合わせたデジタルソリューションを提供する企業〉へと変貌を遂げると同時にグローバルでの存在感も確立させてきた。鉄道事業は欧州を中心に、昇降機事業は中国を中心に、それぞれの成長市場で事業を拡大させてきた現在の日立は、その売上収益の半分以上が海外での売上となった。

 今、日立は日本だけではなく、世界に広がる社会課題の解決をリードする企業として日々進化している。
 

企業の沿革
History of Hitachi,Ltd.

1910年
創業
久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場として発足。5馬力誘導電動機を完成



1916年
10,000馬力水車を完成

1920年
株式会社日立製作所として独立

1924年
国産初の大型電気機関車ED15形を完成



1932年
エレベーターの製造を開始
電気冷蔵庫の第1号を完成
 



1943年
北海道の雨竜発電所に21,700kW立軸フランシス水車を納入



1956年
DF90形ディーゼル電気機関車を完成

1964年
東海道新幹線用電車を製造




1968年
霞が関ビルディングに当時の国内最高速エレベーターを納入



1975年
Mシリーズ大型コンピュータシステムを完成

1976年
世界初の光通信システム実証試験に成功

1983年
国産初のスーパーコンピュータ「S–810」を完成
出典:一般社団法人 情報処理学会Webサイト「コンピュータ博物館」



1990年
高精細TFTカラー液晶ディスプレイを開発

1993年
高速新幹線電車300系の開発
単一電子メモリーの室温動作に世界で初めて成功

1999年
リチウム二次電池をマンガン系で実用化

2002年
世界最小0.3ミリ角の非接触ICチップを開発

2003年
小型・高速・高精度の指静脈認証技術を開発




2016年
「Lumada」によるIoTプラットフォーム事業を開始。デジタル技術を活用した社会イノベーション事業を加速
 

●会社概要(2020年3月末時点)

代表者/執行役社長兼務CEO 東原 敏昭
市場/東1、名1
資本金/459,862百万円
単元株式数/100株
発行済株式数/967,280千株
従業員数/301,056人

●お問い合わせ先
㈱日立製作所 インベスター・リレーションズ
〒100-8280 東京都千代田区丸の内1-6-6
TEL 03-3258-1111
https://www.hitachi.co.jp/

●財務データ(連結)

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