アイアールマガジン

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先駆者たちの大地

日本の近現代史とともに歩んだ117年

~時代を創る〈光と空気と水〉の技術~

わが国には社歴が100年を超える老舗企業が数多く存在する。しかし、1世紀の星霜を経てもなお、創業当時と変わらぬ若々しい風土を堅持している企業は少ない。総合建築設備大手のダイダンは、そうした稀有な一例である。1903(明治36)年の創業から今日まで、ダイダンは成長軌道を維持し、業界の内外で独自の存在感を放っている。その成長力の源泉は何か。創業来のDNAはどのように継承されてきたのか。日本の近現代史とともに歩んだ117年の軌跡を追った。

 ダイダンという社名は一般にはあまり浸透していないかもしれない。しかし、オフィスやプラント、医療施設といった大型建築物の電気、空調、給排水衛生の各設備工事をトータルに展開する、わが国を代表する総合建築設備会社の一社である。足元の業績も堅調で、2020年3月期の連結決算は、完成工事高では3期連続の増収、親会社株主に帰属する当期純利益では9期連続の増益を達成している。この知る人ぞ知るエクセレントカンパニーは、遠く明治の時代にすでに全国展開を果たし、業界の雄として盤石の地位を獲得していた。日本の近現代史に確かな足跡を残したダイダンの117年の歩みを紐解いていこう。

工業生産の勃興を視野に
1903年、大阪で創業

  ダイダンの沿革は1903(明治36)年、創立者の菅谷元治が、工業生産に必要な機械、電気器具、鉄材等の販売を手がける菅谷商店を開設したことに始まる。場所は大阪市北区壺屋町。至近に淀川が流れる府内屈指の要衝である。翌1904(明治37)年には日露戦争が勃発している。当時、日本の工業界は、紡績や雑貨から、製鋼などの金属工業や船舶、車両製造などの重工業が重きをなす時代への転換期を迎えていた。また工業生産における電気利用も本格化の兆しを見せていた。創業間もない菅谷商店は時機を逃すことなく、発電機の取り扱いを開始。電気機器の製造や電気設備工事にも着手するなど、産業構造の変化に即応した事業体制を構築していった。1907(明治40)年には電気工事業を専業として、商号を「大阪電気商会」と改めている。業容は順調に拡大し、1912(明治45)年には、全国的施工業者として確固たる地歩を築くに至った。ただ当時、電気工事業の地位は低く、電灯会社(現在の電力会社)や電気機器メーカー、建築会社などの付帯事業として扱われることが多かった。大型建築物の設計・施工における電気工事の重要性が広く認識されるようになるのは、第二次世界大戦後のことである。

目先の利益よりも物事の筋
終生変わらぬ哲学を持って

 大正初期、大阪電気商会の事業は、本社が行う電気工事と傘下の大阪暖房商会が手がける暖房工事の二本柱で構成されていた。名古屋と東京にも拠点を展開し、1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦がもたらした未曽有の好景気を追い風に着実な成長を続けていく。1918(大正7)年時点の社員数は合計27人。この陣容で、北海道から九州までの各種工事を施工していた。社内には新興の成長企業らしい若々しいスピリットが溢れ、それが会社を前進させる強力なエンジンとなった。第一次世界大戦の終結後、日本の産業界は深刻な不況に直面したが、幸いにも電気事業のみは異例の発展を続けていく。また電力は家庭用のみならず、工業用動力として不可欠のエネルギーとなっていった。そして、躍進を続ける大阪電気商会の先頭には常に菅谷元治社長の姿があった。
 菅谷元治社長の人柄を物語る次のようなエピソードが残されている。1918(大正7)年起工の大阪市庁舎電気工事の入札にあたり、大阪電気商会は参加5社中、破格に安い値段で応札した。この見積に驚いた大阪市では、「他のもっと高い見積を出した企業に発注する形をとるが、実際の施工は大阪電気商会が行って、権利金だけその企業に払えばいい」と、大阪電気商会に有利な善後策を提示。しかし、菅谷元治社長は目先の利益に拘泥することをよしとせず、安い金額のまま、自社名で受注したという。物事の筋を重んじ、誇りを持ち続けた初代社長の姿勢は、終生変わることはなかった。

占領軍関連の受注を契機に
事業基盤の再構築に成功

  第一次世界大戦の反動不況、1927年の金融恐慌、1931年に勃発した満州事変─。騒然とした社会情勢が続くなか、軍需産業の隆盛を背景に日本の工は、軽工業から重工業へと転換していく。そうしたなか大阪電気商会は、国策に応えて満州(現・中国東北部)に進出するなど、時代の動向に呼応した経営戦略でさらなる発展を続けていった。1933年には株式会社へと組織変更。
  1945年8月に日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏して満州事変からのいわゆる15年戦争は終結した。大阪電気商会が保有していた満州の資産はすべて没収となり、社員の帰国は困難を極めた。しかし、常に時代の動きを注視し、経済社会環境の変化に適応してきた大阪電気商会は、戦後の混乱期を粘り強く生き抜いていく。占領軍関係の工事を多数受注・施工して事業基盤の再構築に成功した。当時の社員数は215人(現業員を含まず)。わが国を代表する電気工事会社として堂々たる陣容を備えつつあった。

大阪暖房商会を新たに発足
好況下で暖房工事が伸びる

  少し遡って1915(大正4)年、菅谷元治は、「大阪暖房商会」を発足させている。第一次世界大戦の特需で産業界が活況を呈するなか、大阪暖房商会の暖房工事も多忙を極めた。専売局から全国の支局の工事を受注したほか、日本銀行の4支店をはじめ、銀行関係の工事も多かった。
  電気工事と暖房工事が共に拡大したことにより、大阪電気商会と大阪暖房商会は1918(大正7)年に統合合併する。「短い社名は印象に残らない。まず社名を人の記憶に残すことが商売の秘訣だ」という菅谷元治の発想から、新社名は「合資会社大阪電気商会大阪暖房商会」という長いものになる。
 

先進テクノロジーの導入へ
多数の技術者を欧米に派遣

 大阪電気商会大阪暖房商会は、昭和30年代に始まった日本の高度経済成長のなかで、着実な成長を実現していく。また、事業規模の拡大に対応して国内拠点網の拡充と社内組織・機構の改編に取り組んだ。1965年には、長年なじんできた大阪電気商会大阪暖房商会の商号を廃し、大阪電気暖房株式会社を名乗ることになった。
  昭和40年代になると、超高層ビルの登場を契機とした施工規模の大型化・高度化への対応と産業公害の対策・抑止が工事業界にも強く求められるようになった。大阪電気暖房は、保有技術の高度化と先進技術の導入を図るため、多数の技術者を米国と欧州に派遣。1968年には、研究開発を加速するため技術本部を新設している。こうして経営体制をより盤石なものとした大阪電気暖房は、1970年の大阪万博では、日本瓦斯協会館など11のパビリオンの施工に携わり、広く業界の内外にその存在をアピールすることになった。

近代的企業へと変貌し
ダイダン株式会社が誕生

  大阪電気商会から現在のダイダンまで、その強みのひとつは、機動的な組織体制を確立している点にあるといえるだろう。日本の高度経済成長とその象徴である「いざなぎ景気」の超好況を受け、建設産業と設備工事産業は飛躍的な成長を続けていくが、こうした外部環境の変化に対応すべく、大阪電気暖房は相次いで出張所を開設するなど、拠点ネットワークの拡大を進めていく。
 そして大阪電気暖房は、事業部制への移行など、さまざまな改革を断行していった。外に対しては売り上げの拡大、内においては組織体制の強化という両面で経営の高度化を進めていった大阪電気暖房にとって、事業の拡大に体制が追いつかないという成長企業にありがちな問題は無縁であった。
  オイルショックの1973年から昭和の終わり(1989年)までは、大阪電気暖房が菅谷家の「家業」から、近代的企業へと変貌していく〈基盤整備の時代〉といえるかもしれない。大阪、東京、名古屋の3地域による「地域事業部制」の導入、営業本部の東京移転による首都圏ビジネスの拡大、「3カ年利益計画」の策定、1975年の大証2部市場への株式上場(1981年に大証1部へ指定替え)、1977年の海外事業部発足から本格化する海外市場の開拓、省エネをはじめとした各種先進技術の開発─と矢継ぎ早に新たな施策・取り組みを遂行していった。
 この時期で特筆されるのは、1976年に社内公募によって、今も生き続けるキャッチフレーズ「光と空気と水を生かす」が誕生したことであろう。このフレーズは、大阪電気暖房が生命活動に不可欠な光、空気、水を扱う高い社会性を持った企業であること、そして、電気、空調、水道衛生の各部門をバランスよく展開する優良企業であることを端的に表現するものである。1985年には、41歳の菅谷節が第5代の社長に就任。そして1987年に「ダイダン株式会社」へ社名変更したが、業界や市場では古くから「ダイダン」の略称で親しまれていたから、それを追認した形であった。一方、1984年には技術本部に技術研究所を新設し、BMS(ビルマネジメントシステム)の開発など、業界を刷新する新技術の創出に注力した。

「大企業」として躍進するなか
菅谷一族外の社長が誕生

  ダイダンの平成時代(1989年?2019年)は〈進化と躍進の時代〉である。1989年3月期に完成工事高1000億円を達成し、名実共に「大企業」となると、そのままバブルの好景気を背景に目覚ましい成長を継続していく。1993年には満を持して東証1部に上場。関西国際空港旅客ターミナルビル(1994年竣工)、長野オリンピック記念アリーナ(1996年竣工)など、歴史に残るプロジェクトにも参画した。
  バブル経済の崩壊により、ダイダンの成長基調も頭打ちになるが、社員の意識改革や研究開発体制の強化といった基盤整備策を通じて、この難局を乗り越えていく。そして1999年、新社長COOに三和銀行(現・三菱UFJ銀行)から招いた菊地比呂志が就任。菅谷節が引き続きCEOを務めるが、社長が菅谷一族以外から誕生するのはダイダンの歴史上初めてのことであった。その後ダイダンでは、2003年に安藤壽一、2011年に植林信一、2013年に北野晶平とバトンが引き継がれ、2018年には北野晶平が会長に就任、新社長に藤澤一郎が就いて現行の経営体制が始動することになる。

高層ビルから大規模プラントまで
あらゆる建築物に「快適」を

 近年の実績は目覚ましい。病院の施工シェアではトップを誇り、地域の拠点病院などを数多く施工していることから、“病院のダイダン”といわれるほどである。また、商業施設においても“街の顔”となるような建物の施工実績を積み上げている。
  技術力向上のために、産業施設にも注力しており、電子デバイス工場や製薬施設、近年ではデータセンターなどの工事に取り組むことで、最先端の技術力と知見を蓄積している。
 平成時代、設備工事業界を取り巻く事業環境は大きく変貌した。環境への配慮が強く要請されるようになった一方、BCP(事業継続計画)を見据えた災害に強い建物づくりが建設業界の重要課題として浮上した。また、大都市圏を中心にインテリジェントビルが多数建設されるようになり、官民一体となったスマートシティ構想も現実化しつつある。ダイダンはこうした社会の動きに即応しつつ、さらなる成長を追求している。ダイダンの競争優位の源泉は、常に新たなテクノロジーやシステムを生み出し業界に新風を吹き込む卓越した研究開発力と、外部環境の変化に機動的に対応し、新たなビジネスや市場を切り拓いていく開拓者精神だ。 2023年3月には創業120周年を迎える。これを見据え、ダイダンは2021年3月期を最終年度とする中期経営計画を推進している。環境省が主導するZEB(ゼブ)*への取り組みや再生医療分野の深耕を一段と加速させるとともに、海外事業の再構築にも注力していく構えだ。

*net Zero Energy Building(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)の略称
 
左からJPタワー(東京)、広島赤十字・原爆病院(広島)、なんばスカイオ(大阪)

 現在、ダイダンを率いる藤澤社長は「電気、空調、給排水は建物に命を吹き込み、建物を輝かせるもの。ダイダンは光と空気と水をトータルに制御する先端技術を駆使して、高層ビルから大規模プラントまであらゆる建築物において最適な環境を創造し、さらなる成長を実現していきます」とその熱い思いを語る。創業から117年、わが国屈指の老舗企業だが、藤澤社長の言葉通り、その企業風土は若々しいベンチャースピリットに溢れている。

 

企業の沿革
History of DAI-DAN CO.,LTD.

●1903年 3月、創業者・菅谷元治が大阪市北区壺屋町に、工業生産に必要な各種機械、電気器具、鉄材、石炭等の販売を目的とした「菅谷商店」を創業
●1906年 菅谷商店と同じ大阪市北区壺屋町に、「村井菅谷営業事務所」を開き、暖房工事業に進出
●1907年 1月、日露戦争を契機とする日本の重工業化に伴い、電気の利用が進んだことから、電灯の取付を行う
電気工事を専業とし、商号を「大阪電気商会」と改める
住友総本店(大阪府)

●1909年
3月、電気、暖房ともに業務が繁忙になり人員も増えたため、大阪市西区江戸堀南通一丁目(前の本店所在地)に事務所を移転
●1912年 名古屋、東京に出張所を開設。(1921年12月に支店に昇格)
●1915年 4月、「村井菅谷営業事務所」の営業権を譲り受け、新たに「大阪暖房商会」を発足
●1918年 3月、第一次世界大戦の大戦景気で業容が拡大し、「大阪電気商会」と「大阪暖房商会」を統合し、「合資会社大阪電気商会大阪暖房商会」を設立
日本銀行本店(東京都)

●1933年 10月、「株式会社大阪電気商会大阪暖房商会」を設立
愛知県庁舎

●1943
9月、太平洋戦争の戦時下では「暖房」が贅沢品になったことや、「商会」が商社のイメージを与え資材や労務の調達で不都合となったことなどから、「大阪電気鉄管工業株式会社」に商号を変更
●1946年 12月、敗戦に伴い元の商号「株式会社大阪電気商会大阪暖房商会」に戻す。占領軍の設営工事の増加に伴い、各地に相次いで出張所を開設
●1962年 3月、社是を制定。「真剣努力、思考創造、協力和合、信義礼節、誠実感謝」


●1965年
1月、「大阪電気暖房株式会社」に商号変更
●1973年 5月、大阪支店の現業部門が独立して「大電設備工事株式会社」を設立。この後、1976年にかけて9社が独立し、関係会社を設立
最高裁判所庁舎(東京都)

●1975年
10月、大阪証券取引所市場第2部に上場
●1977年 6月、海外事業部を設立、同年8月にシンガポールに駐在員事務所を設置。1979年1月、シンガポール駐在
員事務所を支店に昇格
●1981年 9月、大阪証券取引所市場第1部に指定替え
●1983年 2月、現在地(大阪市西区江戸堀)に本店ビルを建設
●1987年 4月、「ダイダン株式会社」に商号変更。11月には中央区銀座2丁目から千代田区富士見2丁目に東京本社を移転。
分散していた東京本社の機能をひとつに統合
●1993年 8月11日、東京証券取引所市場第1部に上場
●1996年 長野オリンピック記念アリーナ(エムウェーブ)竣工(長野県長野市)
長野オリンピック記念アリーナ(エムウェーブ)

●2016年
九州支社・スマートエネルギーラボ(エネフィス九州)建設。BCPの観点からの九州支社建て替えに合わせ、自社ビルでのZEB(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)化を実証する施設として建設。事務所機能を有する初めての実証施設となった
●2017年 再生医療分野の産業化推進への貢献を目指したオープンイノベーションを進めるため、「ライフイノベーションセンター」(神奈川県川崎市)内に、最新のCPF(細胞培養加工施設)を備えた「セラボ殿町」を開設 
エネフィス九州(九州支社)
 
エネフィス四国(四国支店)

●2019年 エネフィス四国(四国支店)を建設。完全ZEB(100%エネルギー削減)を達成する


 

●会社概要(2020年5月10日現在)

代表者/代表取締役会長 執行役員 北野 晶平     
    代表取締役社長執行役員 藤澤 一郎
市場/東1
資本金/4,479百万円
単元株式数/100株
発行済株式数/22,981千株
従業員数/1,617人  ※2020年3月31日現在

●お問い合わせ先
ダイダン㈱ 経営企画室 広報・IR担当
〒102-8175 東京都千代田区富士見2-15-10
TEL 03-5276-4568
https://www.daidan.co.jp/

●財務データ(連結)

株価情報
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