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名城は語る~2022新春特別編~

アイアールmagazineの連載企画「名城は語る」。
日本各地の城を独自の目線で解説している大人気コラムです。
118号は新春の特別編として、本誌で掲載したものに加筆した完全版をWEB限定で公開!

「月輪の城」――柳川(やながわ)城

 



 当たり年、というものがある。サッカーでは小野伸二や遠藤保仁、稲本潤一、高原直泰ら黄金世代、プロ野球では上原浩治、松坂大輔、藤川球児、里崎智也、福留孝介らをはじめとする98年ドラフト組のように、それぞれの世界を代表する突出した才能が、ひとつの世代に集中して出現することがあることを、読者諸兄もよくご存じだろう。

 日本史上における当たり年といえば、私は迷わず永禄10年(1567年)と答える。花の1567年組ともいうべきこの年に生を受けた武将には真田信繁(幸村)、伊達政宗など、錚々たる武将たちが綺羅星のごとくひしめくが、なかでも、歴史家たちが「最強」と口を揃えるのが立花宗茂だ。


 かつて九州に覇を唱えた大友宗麟。その大友家を両輪となって支えていたのが立花道雪と高橋紹運という二人の猛将だった。宗茂は、この高橋紹運の長男として生まれ、後にその将才を見込んだ立花道雪の婿養子(*1)となって、立花家を継ぐ。いわば戦国を代表する二人の猛将のDNAを受け継ぎ、将としての英才教育を受けたわけである。

 生涯不敗ともいわれる宗茂の武名が全国に轟く契機となったのが、豊臣秀吉の九州征伐における戦いだ。5万余騎にのぼる島津軍の北上戦に対し、岩屋城(福岡県太宰府市)を守る実父高橋紹運はわずか700の兵で徹底抗戦。自らは自刃、城兵は一人残らず戦死という壮絶な最期を遂げる。近隣に位置する立花山城(福岡市)を守っていた宗茂も劣勢を強いられたが、1カ月もの間持ちこたえ、秀吉の救援を察知した島津軍の虚を突いて大損害を与え、紹運最後の地となった岩屋城を奪還する。

 秀吉はこの宗茂の活躍を手放しで激賞し「その忠義、鎮西(九州)一、その剛勇、また鎮西一」と評したとされ、宗茂は秀吉の直臣として筑後柳川10万石の大名に取り立てられる。その後も小田原合戦や朝鮮出兵など、豊臣政権における重要な戦いで多くの武功を上げ、評価を高めていったが、その圧倒的な強さの秘訣を聞かれた宗茂はこう答えたという。「特別な戦術など何もない。大将がただ進め、死ね、といっても従う者などいるわけがない。常に兵に対して依怙贔屓せず公平であることや、例え誰であろうが法に触れたものは法によって対処することが重要だ。そして、普段から子を思うように情けをかけ、下の者は親を慕うような関係をつくる。そうすれば人は下知がなくとも、一命を投げうって力戦してくれる」と。

 
 一大転機となったのが関ヶ原の戦い(1600年)だ。宗茂の強さを恐れた徳川家康からは法外な恩賞を約束され、東軍に加わるよう誘われたが、「秀吉公への恩義を忘れて東軍に味方するくらいなら、命を絶ったほうが良い」と言い切り、石田三成らの西軍として参戦、あくまで自分を取り立ててくれた秀吉や三成への忠義を貫いた。

 当初西軍は大垣城(岐阜県)を拠点に東軍を迎え撃つ予定だったが、京極高次が東軍に寝返ったことを受け、宗茂は別動隊として高次の居城、大津城(滋賀県)攻略に向かう。これが運命の分かれ道となった。家康は鬼のいぬ間にとばかりに、宗茂不在の西軍に対し、関ヶ原での野戦に持ち込むことに成功する
(*2)

 そんなこととは露知らぬ宗茂。猛攻により大津城を陥落させた同じ日、宗茂を欠いた西軍本隊は、奮戦むなしく関ヶ原で大敗北を喫してしまう。これを知り愕然とした宗茂だったが、すぐさま大坂に向かい、総大将の毛利輝元に大坂城での籠城戦を進言する。

 東軍には、三成憎しの感情から参加している豊臣恩顧の大名が多い。秀吉の遺児である秀頼を戴いて大坂城で戦うとなれば、豊臣恩顧の大名は東軍から離反するはずだという読みもあった。

 だが、家康は一枚も二枚も上手だった。西軍の総大将であるはずの毛利家にもすでに調略の手が伸びており、輝元は戦意を失ってしまっていたのだ。失意の宗茂は本領の柳川城に戻り、抵抗を続けるが、最後は旧知の黒田官兵衛や加藤清正の説得により、開城を決断。宗茂自身は不敗のまま、領地を全て没収されてしまう。浪人となった宗茂や家臣たちの暮らしは貧困を窮めたようだ。その日の食べ物にも困り、家臣らが物乞いをすることさえあったが、そんな状況にあっても、家臣たちは決して宗茂を見捨てることはしなかった。

 

 関ヶ原の戦いから4年後、再び転機が訪れる。宗茂の器量を惜しんだ家康・秀忠により陸奥棚倉に領地を与えられ、大坂の陣での活躍を経た後、旧領筑後柳川に復帰。関ヶ原で改易された大名のなかで旧領復帰を果たした唯一の武将となる。徳川に敵対してなお、ここまで信用されていたことからも、彼の能力や人柄がいかに高く評価されていたかがわかるだろう。

 真田信繁(幸村)は時代に抗い、後世まで語り継がれる伝説を遺して散った。伊達政宗は権力者と結び、時代に寄り添うことで気概を示し続けた。そして宗茂は、徹底して自らの信念を貫くことで、一旦は表舞台から去ったものの、結局は時代の方から歩み寄ってきた。当たり年の同期組は、三者三様ながらも、それぞれのスタイルを貫き、名を残したと言えよう。

 企業も「法人」という言葉通り、意思を持った生き物である。山もあれば、当然のごとく谷もあるだろう。投資判断をするうえでは、業績や配当はもちろんだろうが、その企業がどんな信念を持ち、意思を持っているか、そんな企業の「生き様」も、しかと見ていきたいものである。2021年は新規上場が活発な年だった。2022年は4月に市場再編もあり、上場基準も変わる。確固たる信念を持った注目すべき企業の「当たり年」となることを期待したいものである。

 
 威容を誇った柳川城だが、五層五重の天守は明治5年の失火により焼失。現在は学校の敷地となり、かつての面影はない。しかし、攻めにくく、守りやすい堅城として名を馳せた頃を彷彿とさせる四重の水堀は今も残り、堀を巡る川下りは柳川を訪れる者を楽しませてくれる。

 かつての城内には、立花家の別邸・御花や立花家史料館など、街の歴史を伝える施設も数多ある。史料館にはかつて宗茂が愛用した鉄皺革包月輪文最上胴具足(てつしぼかわつつみがちりんもんもがみどうぐそく)が伝わる。月輪(がちりん)とは、月の光。月の輪を象った兜の脇立の意匠が由来とも、同じ文様を用い、宗茂と親交の深かった加藤清正との関わりがあったとも言われる甲冑である。静かな存在感のなかに、見る者の心を戦国の時代に誘う凄みがある。

 同様に、天守や櫓といったわかりやすい遺構はなくとも、柳川という街が持つ落ち着きや凛とした佇まいは、宗茂の生き様や、彼が残した文化・気風というものを色濃く残している。静かに光をたたえる月輪のように。




*1 道雪の娘、誾千代と夫婦になるが、非の打ちどころのない宗茂の唯一の弱点が夫婦仲であった。この件について語るだけで1冊の本になるくらいエピソードには事欠かないので、それはまた別の機会に

*2 言うは易しだが、好機を読む眼力、戦前の西軍への調略含め、家康の謀略の凄まじさを思うと背筋が凍る


 

柳川城跡

住所:福岡県柳川市本城町
交通:西鉄天神大牟田線「西鉄柳川駅」から西鉄バス「本城町」下車徒歩約2分