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名城は語る~新春特別編~

アイアールmagazineの連載企画「名城は語る」。
日本各地の城を独自の目線で解説している大人気コラムです。
116号は新春特別編として、本誌で掲載したものに加筆した完全版をWEB限定で公開!



「城」イコール「天守」ではない。

 全国に4万とも5万ともいわれる城のなかで、天守や石垣を備えた城はほんの一握りであり、長い歴史の最後の1ページにすぎない。天守が現存する城は全国に12城。その多くが戦国後期から江戸期にかけて建てられたものである。「天守」という存在は松永久秀の多聞山城にはじまり、織田信長、豊臣秀吉と続く天下統一事業のなかで一気に普及していく。その後、関ヶ原後の大規模な国替えで諸大名が新天地に城を築いた*¹ことにより、全国津々浦々まで新築天守が出現した。

 三基の小天守を従え、白鷺のごとく優雅な姿を誇る姫路城。下見板張*²の質実剛健な漆黒の天守を水面に映す松本城。いずれも見る者の心を打つ。空高くそびえる壮麗な天守は大名の武威を示すとともに、時代が下るにつれ、街のシンボルとして地元に暮らす人々の誇りとなっていく。


 しかしながら、である。町の風景に馴染み、昔からそこにあると思っていた美しい天守の多くが本来は存在するはずのない、架空の建物だと知ったら、あなたはどう思うだろうか?

 12城しか現存していない以上、その他の城はすべて復元ということになる。ただ、復元にも色々ある。鉄筋コンクリート製ではあるが、外観は当時のまま再建した「外観復元天守」。名古屋城や岡山城がこれにあたる。また、当時確かに天守があったが、資料が少なく、位置や造形を含め、想像で補完して作られたのが「復興天守」。代表的なものが大阪城である。そして、史実では天守などなかったはずの城に、観光資源等を目的に、まったくの空想で作られたのが「模擬天守」。一夜城として有名な墨俣城や富山城がこれだ。これ以外にも、本来存在しなかった誰かの想像の産物が、日本には数多ある。

 

 史実でないものを、さもあったかのように建ててしまうというのは決して感心できることではないが、これには情状酌量の余地もある。例えば、敗戦で主要都市の多くが焼け野原となった日本において、街の復興のシンボルとしてかつて存在した天守を再建し、心の拠り所としたい、という当時の人々の思いは一概に否定できるものではないだろう。

 また、学術的な考察が進んだが故の悲哀もある。前出の大阪城だ。現在の天守は昭和6年、「太閤さんのお城」を熱望する市民の寄付により、豊臣時代の天守を模して再建されたものである。当時陸軍の敷地であったことや、信頼できる一次史料が少ない*³こともあり、プロジェクトは困難を窮めたという。苦難の末、完成までこぎ着けた大阪城だったが、歴史の皮肉はここから始まる。昭和34年に実施された学術調査により、現在の大阪城は豊臣時代の城を徹底的に破壊し盛り土をして築き直した、完全な徳川オリジナルの城であることが判明したのだ。これにより大阪城天守は、本来存在した位置も、デザインもことごとく史実と異なることが明らかになってしまう。

 ただ、この奇妙な復興天守も、建設からすでに90年を迎える。平成9年には初期の近代建築として登録有形文化財に指定*⁴。史実とは異なれども、太閤秀吉の城として、大阪の象徴的な存在となっていることを思えば、これ以上物申すのは野暮というものだろう。

 近年では、大洲城(愛媛県)や白河小峰城(福島県)のように、古写真や図面に基づき、材料も工法も当時のものを忠実に再現する「木造復元天守」も出てきており、史実を重視する復元が主流だ。その一方で、名古屋城の木造復元にまつわる是非の議論は記憶に新しい。史実か、利便性か。税金を投入する事業である以上、さまざまな意見が出てくることも致し方ない。文化財保護への姿勢や、公平な社会への考え方など、さまざまな面で人々の意識が大きく進化したが故の葛藤であるのかもしれない。

 

 コロナウイルスの蔓延によって、私たちの生活は一変した。仕事はテレワーク中心となり、承認や決裁もオンラインが当たり前に。旧来の対面型を前提としたビジネスは苦境に立たされ、巣籠り需要・テレワーク需要を取り込んだ企業が株価を伸ばしている。そして、あらゆる企業が試行錯誤を重ね、withコロナ・afterコロナを見据えた新しい事業モデルへの進化を模索している。人も企業も、さまざまな困難に直面しながら、時に打ち克ち、時には間違いながらより良い進化の道を歩んできたのだろう。

 令和2年4月、文化庁は歴史的建造物の復元における新しい基準を公表。史実を重視しつつも、本質を逸脱しない範囲での復元的整備を認める方針を示した。全国の埋もれた名城の整備が適切な形で進むことを期待したい。城という存在が街の誇りとして、市民の憩いの場所として、そしてなにより、乱世の困難を潜り抜けてきたかけがえのない歴史の生き証人として、進化する社会の足元を照らす道標とならんことを。

 

*1 慶長の築城ラッシュ。天守を持つ城が雨後の筍のごとく出現したが、徳川幕府の「一国一城令」や明治政府の「廃城令」で多くの城がその役目を終えた

*2 土壁の外側に板を張ったもの。信長の安土城や秀吉の大坂城、岡山城や広島城など初期の天守では美しい漆塗りを施していたが、費用がかかりすぎる問題があり、ほとんどの下見板張の場合、安価な墨が用いられることが多かった

*3 天守の再現にあたっては「大坂夏の陣図屏風」を基にしたようだが、色も形も、どこをどう見ても現在の天守とは似ても似つかない。大らかな時代だとはいえ、ここまで違うともはや清々しさすら感じてしまう

*4 おかげで、史実に則って再建しようにも、文化財の破壊になってしまうという矛盾を抱えることとなった